・山門(札所碑)
・境内(鍔塚 倶利伽羅不動庚申塔 宝筺印塔)
・本堂
・目白不動堂
・墓地(庚申塔 青柳文蔵の墓 丸橋忠弥の墓)
神霊山金乗院慈眼寺と号します。
第二次世界大戦で焼失した目白不動堂(新長谷寺)を合寺しています。
<金乗院>
・江戸三十三観音霊場14番
・御府内八十八箇所霊場38番
・東京三十三観音霊場23番
<目白不動堂>
・関東三十六不動霊場14番
・御府内八十八箇所霊場54番
・山の手三十三観音霊場9番
・近世江戸三十三観音霊場16番
・江戸五色不動
「江戸切絵図 目白不動堂」
目白不動堂・別当新長谷寺は、目白坂上にありました。
「江戸名所図会 目白不動堂」
目白坂上に描かれている目白不動堂です。
「絵本江戸土産 目白不動」(広重)
挿絵には「目白不動は目黒とかはりて高き丘にあり眺望もつともよし」とあります。
「東京名所四十八景 関口目しろ不動」(昇斎一景 都立図書館蔵)
右上に目白不動、左の崖下に神田上水の関口大洗堰が見えます。
「御府内八十八ケ所道しるべ 三十八番金乗院/五十四番新長谷寺」
<目白不動 金乗院>
(説明板)
「目白不動 金乗院
所在地 豊島区高田二-一二-三九
金乗院は真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創とされています。永順の没年は文禄三年(一五九四)六月であることから、それより以前、天正年間(一五七三〜九二)の創建と考えられます。当初は蓮花山金乗院と称し、中野宝仙寺の末寺でしたが、のちに神霊山金乗院慈眼寺と改め、護国寺の末寺となりました。
江戸時代には近辺の此花咲耶姫社などの別当でしたが、昭和二〇年四月の戦災で本堂等の建物や、水戸光圀の手になるという此花咲耶姫社の額などの宝物は焼失しました。現在の本堂は昭和四六年に再建され、平成一五年に全面改修されました。
目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)は、元和四年(一六一八)大和長谷寺第四世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(文京区)にありましたが、昭和二〇年五月の戦災により焼失したため、金乗院に合併し、本尊の目白不動明王像を移しました。
目白不動明王は、江戸守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高く、目白の号は寛永年間(一六二四?四四)に三代将軍徳川家光の命によるといわています。
墓地には、槍術の達人丸橋忠弥、青柳文庫を創設した青柳文蔵などの墓があり、境内には寛文六年(一六六六)造立の倶利伽羅不動庚申塔をはじめ、寛政一二年(一八〇〇)造立の鍔塚など多くの石造物があります。
平成一九年(二〇〇七)三月 豊島区教育委員会」
【山門】
山門の扁額は、山号の「神霊山」です。
門柱左に「江戸三十三観音霊場第十四番札所」。
門柱右に「関東三十六不動霊場」板が掲げられています。
<札所碑等>
「地蔵菩薩坐像」
戒名が刻まれており墓標のようです。
<新長谷寺札所碑>
(正面)
「本尊十一面観世音 長せ寺」
江戸第拾六番
山之手第九番」
(左側面)
安永9(1780)年銘
(右側面)
「大和長谷の観世音同木同作 東豊山新長谷寺」
<金乗院札所碑>
「江戸八十八箇所之内
第三十八番目 神霊山金乗院」
宝暦8(1758)年銘
<金乗院札所碑>
「御府内三十八番 弘法大師」
明治44年銘。
<新長谷寺札所碑>
(正面)
「弘法大師」
(左側面)
「五十四番」
(台座)
「新長谷寺」
「目白不動明王像」
享保6(1721)年銘。
<石碑>
「武運長久」「天下泰平」
<水子地蔵>
寛政12(1800)年の鍔塚で、刀剣の供養塔です。
目白不動からの移設です。
<庚申塔>
境内の庚申塔です。紀年不明。
<弘法大師像>
弘法大師御誕生1200年を記念して、昭和49(1974)年に造立。
寛文6(1666)年銘。
倶利伽羅不動明王を主尊とする庚申塔です。
(掲示)
「倶梨伽羅不動庚申
人間を罪過から守る青面金剛の化身、三猿は天の神に人間の犯す罪を伝えない様子をあらわしている。」
宝暦11(1761)年の宝筺印塔。
邪鬼が四隅で支えています。
<圭水子地蔵尊>
<手水鉢>
<寺務所>
扁額は「慈眼寺」です。
本堂の扁額は、山号の「神霊山」です。
目白不動尊参道の階段を上がると、地蔵群があり、一番左の地蔵は元禄11(1698)年の銘があります。
目白不動堂は、拝殿と本殿とがあります。
拝殿に扁額「目白不動堂」、本殿に奉納額「目白不動尊」が掲げられています。
参道
拝殿
本殿
墓地への通路手前右手にある2基の庚申塔です。
左:元禄5(1692)年。中央「奉待念庚申一座」
右:延宝5(1677)年。中央「庚申塔信心衆」
<石碑>
通路左手にある石碑です。
<庚申塔>
通路左一番手前の庚申塔です。寛文8(1668)年。
三猿は座っているようで珍しい。両側面に鶏が彫られています。
<札所碑>
「弘法大師三十八番」
<庚申塔>
通路右手前の庚申塔です。延宝4(1676)年。
「奉建立庚申塔婆二世安楽攸」右脇に年号。
正面下に聞か猿、左側面に言わ猿、右側面に見猿。
<六字名号塔/六十六部供養塔>
宝永(1709)年。
正面「南無阿弥陀佛」。
左側面「奉回國六十六部供養為法界利益」。
<庚申塔>
万治2(1659)年。正面下部に三猿。左右側面に鶏。
<不動明王像>
<十一面観音立像>
元文5(1740)年。
<聖観音菩薩立像>
享保17(1732)年の聖観音菩薩立像。
我が国の公開図書館の祖といわれる青柳文蔵の墓です。
辞世句碑
<興教大師七百五十年御忌/弘法大師一千五十年御忌>
<弘法大師1100年供養塔>
<無縁法界萬霊>
丸橋忠弥は、由井正雪とともに江戸幕府転覆を図り捕えられ、処刑されました(慶安の変)。
丸橋忠弥の墓があります。
墓石には「尭雲院忠徳道盛居士」と刻まれています。
右側の標石には「先祖諸聖霊墓前」と刻まれています。
「宿坂」の坂下に「金乗院」があり、坂上で目白通りに交差し、その先は「鬼子母神表参道入口」となります。
坂下から坂上 坂上から坂下へ
目白通りと「宿坂」先の「鬼子母神表参道入口」
「江戸切絵図」
江戸切絵図から金乗院と宿坂の抜粋です。
宿坂下には「ジャリバト云」と記されています。
「宿坂関旧址 金乗院 観音堂」(江戸名所図会)
宿坂が描かれています。宿坂の左手に「金乗院」が描かれています。
挿絵には「此標石の小路を行きて浅間坂へ出る」とあります。
(説明板)
「宿坂道
中世の頃、「宿坂の関」と呼ばれる場所がこの辺りにありました。天保七年(一八三六)出版の『
江戸名所図会 』には、金乗院とともに「宿坂関旧址」が描かれています。金乗院の裏門の辺りにわずかな平地があり、立丁場と呼ばれ、昔ヨ所があった跡であるとの伝承が記されています。この坂の名が「宿坂」といわれているのは、おそらくこれにちなむものと思われます。
また金子直徳著『若葉の梢』(寛政一〇年・一七九八)によれば、宿坂の関は関東お留の関で、鎌倉街道の道筋にあったといわれています。鎌倉街道は、高田馬場から雑司ヶ谷鬼子母神方面へ抜ける街道で、現在の宿坂道よりやや東寄りに位置していたようです。
江戸時代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話が今に伝わっています。」
「江戸名所図会 姿見橋」
「姿見橋」の先に「氷川」「南蔵院」「宿坂」「金乗院」「藤いなり」と続きます。
<金剛寶山根生院之道>
宿坂下から東へ「根生院之道」をたどると「根性院」へ至ります。
目白通り「目白台2丁目交差点」から下り、途中で豊島区と文京区の区境である「日無坂」と別れます。
富士見坂は急坂で、坂の両側に手すりが設けられています。
坂下 坂上、左下へ日無坂
「富士見坂 明治百年記念 高田富士見会」