Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 麹町

 半蔵門から四谷麹町に通じる大通り(甲州道中)の両側や、その南側が麹町です。
 町名は、細い道の形状から小路町と呼ばれたから、麹製造業が多かったから、甲州道中が武蔵国府に続く国府路と言われているから、の三説があります。
 山王祭の山車は、半蔵門をくぐって江戸城内に入るのが通例でした。

 江戸切絵図
  

  ○ 半蔵門
  ○ 千鳥ヶ淵公園
  ○ 町名由来板「麹町一丁目の由来」 別頁
  ○ 太田姫稲荷神社 別頁
  ○ 町名由来板「麹町四丁目」
  ○ 町名由来板「麹町六丁目」
  ○ 常栄山心法寺
  ○ 四谷門跡
  ○ 四谷門石垣
  ○ 江戸城外堀趾(四谷門地区)


半蔵門 千代田区麹町1-1先 半蔵門前交差点南東側植栽内

「名所江戸百景 糀町一丁目山王祭ねり込」(広重)

 三王祭の大行列が、江戸城に練り込む場面を描いています。
 江戸城への「練り込み」は、半蔵門から入り、竹橋から出ました。
 先頭は諫鼓鶏、2番手は御幣猿で、五色の諫鼓鶏は一番乗りで城内に入っているはずが、御幣猿の方が先に半蔵門をくぐろうとしています。
 また、諫鼓鶏の羽の色は神田祭では「白」、山王祭では「五色」ですが、描かれているのは五色ではなく白の諫鼓鶏です。
 広重が間違って描いたはずはないので、意図して描いているのでしょう。
 当時は江戸幕府の行事を描くことは禁止されていたので、言い訳用に、正確に描くよりデフォルメを多用しているのかも。
 山王祭での諫鼓鶏の羽の色が五色なのは将軍の命令によるものなので、これも言い訳用に白く描いているかと思えます。
 構図的にも、本来は江戸城内に入っている天下泰平の諫鼓鶏をあえて描いているのでなないですかね。
 この絵をみると「名所江戸百景 筋違内八ツ小路」に思い当たります。
 筋違御門を入って来た行列が、八ッ小路を横切っているところが描かれており、これを見た瞬間には、将軍の寛永寺への墓参帰りと思ってしまいますが、
 行列には多くの女性のお付を描いており、駕籠の主は女性を主張しているようです。
 これも、将軍の行列は描いていませんとの言い訳かもしれません。

    

 説明板から半蔵門と桜田濠
     

 千鳥ヶ淵公園から半蔵門と半蔵濠
   

(説明板)
「江戸城内郭門の一つで、「こうじまち口」とも呼ばれ、四谷門とともに甲州街道の要衝となっていました。名前の由来は、伊賀者の服部半蔵がこのあたりに配下とともに屋敷を拝領していたという説があります。ほかにも、この門から城内に入る山王祭礼の象の山車が枡形門をくぐることができず、半分だけしか入らなかったという説もあります。門は1620年(元和6年)仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗ほか6名の東国大名により築造されました。
 江戸時代には、半蔵門から入り北に進み、現在の代官町通りを通って、竹橋門(現在の竹橋駅付近)に抜けることができました。
 1871年(明治4年)に渡櫓門は撤去され、現在は高麗門だけが残り、皇室の皇居への通用門として使用されています。 千代田区」

  

「半蔵門」(江戸見附写真帖 大正5年 国立国会図書館蔵)

  


千鳥ヶ淵公園 千代田区麹町1-2、一番町2

 千鳥ケ淵交差点から半蔵門交差点の間の濠に面した千鳥ヶ淵公園です。

(説明板)
「千鳥ヶ淵公園は、大正8年(1919)に開園しました。公園は、この半蔵濠に面した敷地、英国大使館前の桜並木、千鳥ケ淵交差点角の敷地からなります。
 また、英国大使館前に桜並木は、明治14年(1881)に英国大使アーネスト・サトウから寄与された桜に由来します。 千代田区」

    

「麹町高等小学校校舎趾」

  

「さくら再生計画インフォメーション 千代田区
 区内には約3,000本のさくらがあります。
 しかし、これらは戦後まもなく植えられたものが多く、老朽化が進行していると同時に、生育環境の悪化、病虫害などによって樹木の勢いが衰えており、そのままでは将来的に十分な花をつけることが難しくなっていく状況でした。
 そこで、千代田区にふさわしい、日本を代表するさくら景観を創造、持続することを目的として、千代田区は、「区の花さくら再生計画」に取り組んでいます。」

  

「自由の群像」
 新聞事業先覚者20名を顕彰するため、昭和30(1955)年に電通が建立したものです。
 徳富蘇峰の撰文です。

    

「三宅坂・千鳥ヶ淵散歩」 千代田区麹町1-2

   


○町名由来板「麹町四丁目」 千代田区麹町4-1

   

(説明板)
「千代田区町名由来板 麹町四丁目
 この界隈が麹町と名付けられた由来については諸説あります。町内に「小路」が多かったためとも、米や麦、大豆などの穀物を発酵させた「麹」をつくる家があったためとも、また武蔵国府(現・府中市)へと向かう「国府路」があったからともいわれています。実際に近所では、地下に数ヶ所の麹室も見つかっています。
 現在の麹町大通り(新宿通り)沿いに町屋がつくられたのは、徳川家康の江戸入府後のことです。通りの南側は谷地でしたが、寛永のころ(一六二四〜一六四四)、四谷堀を掘ったときに出た土を使って埋め立てられたともいわれています。町屋の北側は寺や火除地(火事の延焼を防ぐ空き地)に、南側は旗本が多く集まる武家屋敷になりました。安政三年(一八五六)の絵図には、出雲松江藩松平家の上屋敷などが見られます。
 一方このあたりは、うなぎの蒲焼伊勢屋や丹波屋、江戸切絵図の版元として名高い尾張屋、麹町で一、二を争う呉服商の伊勢八、尾張藩御用達をつとめる菓子店の亀沢などが店を構え、江戸の高級商店街のひとつでした。また、赤穂浪士が吉良邸討入り前に名前を変えて隠れ住んでいた家もあったと伝えられています。
 町内には井戸がたくさんあったようで、大正十二年(一九二三)の関東大震災のときには、断水した多くの家庭を救いました。
 明治・大正期になっても引き続き商店街として発展してきた麹町四丁目ですが、現在はビルの立ち並ぶビジネス街へと変わっています。 麹町四丁目町会」

    


○町名由来板「麹町六丁目」 千代田区麹町6-4

   

(説明板)
「千代田区町名由来板 麹町六丁目
 江戸時代以前、このあたりは矢部村または横山村と呼ばれていましたが、徳川家康が江戸に入った後に町屋となり、麹町となりました。
 この界隈が麹町と名付けられた由来については諸説あります。町内に「小路」が多かったためとも、米や麦、大豆などの穀物を発酵させた「麹」をつくる家があったためとも、また武蔵国府へと向かう「国府路」があったからともいわれています。
 江戸時代には、現在の麹町大通り(新宿通り)沿いに町屋があるほかは、寺社地と武家屋敷がありました。
 安政三年(1856)には、この絵図にも見られるように、町屋のほかに常仙寺、心法寺、尾張名古屋藩徳川家中屋敷、四ツ谷御門などがありました。このうち常仙寺は、別名「寅薬師」と呼ばれ、境内の様子が「江戸名所図会」にも描かれています(明治の末に杉並区へ移転)。慶長二年(1597)に開山したとされる心法寺は、現在も町内にあり、信仰を集めています。
 明治時代に入ると、ここは印刷所や旅館、麹町勧工場などが立ち並ぶ商店街となりました。 麹町六丁目町会」

    


○常栄山心法寺 千代田区麹町6-4-1

 三河国の秦宝寺から天正18(1590)年に徳川家康と一緒に江戸に来た然翁聖山上人が創始者です。
 慶長2(1597)年に今の場所にお堂をたてたのが心法寺です。

  

 山門前に設置されている千代田区の説明板「常栄山 心法寺」です。

(説明板)
「常栄山 心法寺
 心法寺は、1597年(慶長2年)に開かれた浄土宗寺院で、開山は然翁聖山上人、開基は徳川家康になります。江戸時代以来数多くあった区内の寺院は、災害・戦災・開発によって区外へ移転していきましたが、当寺はこの地にとどまり続けました。現在心法寺は区内で最古の歴史をもち、墓域を有する唯一の寺院となっています。
 歴史ある当寺には貴重な文化財もまた数多く残されています。区指定文化財となっている木造阿弥陀如来坐像、紙本着色仏涅槃図はじめ、境内には同じく指定の銅製梵鐘、水盤、庚申塔があります。墓域にも区内唯一の大名家墓所である下野皆川藩松平家墓所、新田開発や河川改修などで功績をあげた幕臣井澤弥總兵衛墓碑が指定されています。 千代田区」

   

「江戸切絵図」
 心法寺部分の抜粋です。

  

「江戸名所図会 常仙寺 寅薬師堂 心法寺」
 挿絵の右手前に常仙寺(明治時代に杉並区へ移転)、左奥に心法寺が描かれています。

  

 左奥の心法寺部分の拡大です。
 参道脇にある「地蔵」は、現在の「塩地蔵尊」でしょうか。
 本堂の左にある鐘楼の梵鐘は、延宝4(1678)年鋳造の梵鐘でしょうか。
 当時は「御手植松」が本堂前にあったようです。

  

<本堂前掲示>

(説明板)
「常栄山心法寺は、浄土宗の寺院で、現在の千代田区内では墓域を有する唯一の寺院です。もともと心法寺は、推古天皇の頃三河国に開かれた寺院で当寺の寺号は「秦宝寺」とされていたといわれています。その後、慶長ニ年(一五九七)江戸麹町の地に二千余坪の寺地を受けて改めて心法寺を起立しました。
 この心法寺に伝えられる本尊「木造阿弥陀如来坐像」は、像高一○九・○cm(三尺五寸九分)、ヒノ材寄木造りで漆箔を施し、おおむね十ニ世紀最末から十三世紀第一四半期までの製作と考えることができます。すなわち本像の像容・面貌は平安時代後期、11世紀に仏師定朝が完成した定朝式に基本的にしたがうもので、寄木造りの手法にも、その時期の特色をしめしていますが、胸腹部など厚く量感をもった体躯などには、鎌倉時代初頃に成立した新様式の影響がうかがわれます。この点からすれば、本像は鎌倉時代にはいってからの製作と考えるのが自然でしょう。ただし後頭部、左腕の一部と右腕の全部など補修部分が多く、製作当所の像容をかなり損ねており、従って製作年代の確定を困難にしている点も否めません。しかし平安時代後期の面影をのこす鎌倉時代初期の、等身大をうわまわる大きさの像が都心の寺院に遺存することは貴重な事例です。
 心法寺には、「紙本着色仏涅槃図」も伝わっています。本件は、沙羅双樹の下で釈迦が入滅する姿を描いた仏画です。中央の釈迦には箔が貼られ、肉身は黒、衣服の線は朱筆で入れられています。画面は、縦一八ニ・七cm、横一五八・四cm。本図の画面上部の構成は、仏画の典型に従っており、類型的に描かれています。これに対し、画面最下段の部分には、多くの鳥獣が凝縮して描かれています。これら動物は釈迦の入滅に際して泣き、嘆き悲しむ姿で描かれるのが普通ですが、本図ではほとんどの動物が嘆き悲しまず冷静な姿で、いわば写実的、博物学的に描かれています。そしてこのような博物学的な写生図の気運が高まるのは、一般に享保時代以降とされています。また図中には、「伯喬図」との落款があります。この伯喬については、『武江年表』元文元年(一七三六)八月の記事に「品川(北番場)天竜寺に、呉道子の筆南海補堕山鎮海寺立石観世音像を写して碑を立つる(素人斎伯喬之を写す、加藤氏造立)」とあります。以上のことから本図は、享保・元文年間(一七一六-四一)に作製された作品であると思われます。
  平成十ニ年十月 浄土宗心法寺」

    

<塩地蔵尊>

 江戸名所図会には、塩地蔵尊らしい小堂宇が描かれています。

「塩地蔵尊
 地蔵尊のお体に塩をぬってお参りをすることから塩地蔵尊と称されており墓地内の「六地蔵」と並び二百年以上前の麹町の史料にも記されております。ご参詣の方々の身体健康を祈願しております。心法寺」

      

<銅製梵鐘> 千代田区文化財

 江戸名所図会に描かれている梵鐘でしょうか。

   

(説明板)
「銅製梵鐘/庚申塔
銅製梵鐘
千代田区指定有形文化財
1998年(平成10年)4月1日指定
 この梵鐘は、1676年(延宝4年)に鋳造されたものです。開山当初からの鐘が破損したため再鋳造されたとする説もあります。鋳造者は、神田鍋町(現在の神田鍛冶町三丁目)に居住した御鋳物師の椎名伊豫藤原吉寛です。梵鐘には鋳造に際して寄付をした多数の人名や講中の名前が刻まれています。」

  

<庚申塔> 千代田区文化財

 宝暦2(1752)年銘の庚申塔です。
 江戸時代から現在の千代田区に存した寺は、護持院はじめ移転しており、引き続き現在地に存するのは心法寺のみです。
 千代田区に存する庚申塔は、柳森神社とここのニ基だけです。

    

(説明板)
「庚申塔
千代田区指定有形文化財
2011年(平成23年)4月1日指定
 旧暦で60日に1度巡ってくる庚申の日の夜、眠っている間に体内に住む虫(三尸)が天に登り、罪状を天帝に告げるという道教の思想があります。庚申の日は、虫が天に昇らないよう徹夜して過ごす庚申待ちの信仰に基づき建立されたのが庚申塔です。心法寺の庚申塔には日・月、青面金剛像、二鬼、三猿、二鳥が刻まれています。側面の銘から1752年(宝暦2年)に奉納されたと考えられますが、奉納の由来など詳細は不明です。 千代田区」

  

<水盤> 千代田区文化財

 万延2(1861)年寄進の水盤です。

   

(説明板)
「水盤
 千代田区指定有形民俗文化財 2002年(平成14年)4月指定
 この水盤は、銘文によれば1861年(万延2年)2月に檀家である稲垣氏が心法寺に寄進したものです。
 また、水盤に関しては、銘文から判明することとは別に、心法寺住職在誉上人が1861年(万延2年)京都からの帰途に旧地である三河国(幡豆郡宮崎庄、あるいは額田郡宮崎)に立ち寄って、「開山歴代の花崗石八角の墓碑」と「稲垣氏より寄進の大浄水盤」を造らせたという説もあります。
 この水盤は、区内に現存する近世以前からの由緒を持つ唯一の寺院である心法寺の、江戸時代末期の信仰と暮らしを物語っています。 千代田区」

  

<瓢箪井戸>

 現在は千代田区の災害時の協力井戸となっています。

  


四谷門跡 千代田区麹町6-6 サンサン広場

 「千代田区立四ッ谷駅前サンサン広場」に、説明板「四谷門跡」が設置されています。

   

(説明板)
「四谷門跡
 四谷門、通称四谷見附は「江戸城三十六見附」の1つで、現在の麹町方面と四谷方面(新宿区)を結び、半蔵門を起点とする甲州街道の口でした。
 見附の桝形と石垣の建設は長門萩藩(現在の山口県)藩主毛利秀就に命じられ、1636年(寛永13年)に建造されました。門は1639年(寛永16年)に、旗本の室賀正俊と大岡正清によって構築されました。桝形と石垣の建設時は外麹町口と呼ばれていましたが、他に四谷口や山ノ手口とも呼ばれており、1673〜81年(延宝年間)頃には四谷門と呼ばれるようになりました。
 明治維新後、1872年(明治5年)に門が撤去され、桝形と石垣のみが残りましたが、1899年(明治32年)に桝形と石垣のほとんどが撤去されました。現在は見附北側の石垣が現存しており、南側の石垣はJR四ツ谷駅舎の下部に保存され、一部が露出した状態で保存されています。」

    

「四谷見附」(江戸見附写真帖 大正5年 国立国会図書館蔵)

  

<千代田区 都市景観賞>

  

<彫刻「トンボ釣り」(伊佐周)>

  

<彫刻「春」(黒川晃彦)> 千代田区六番町15 主婦会館プラザエフ前

  


四谷門石垣 千代田区麹町6、六番町

 説明板「四谷門跡」の視線の先にある四谷門の石垣です。

    

「四谷見附より市ケ谷方面を望む」(東京風景 明治44年)

  

○ふるさと文化の散歩道 千代田区麹町6 JR四ツ谷駅麹町口出口

 JR四ツ谷駅麹町口出口に、千代田区「ふるさと文化の散歩道」の案内板が設置されています(令和4年10月設置)。
 「北の丸コース」「外堀コース」「駿河台コース」の3コースがあります。

  


江戸城外堀趾(四谷門地区) 新宿区四谷1

 四谷門石垣から新四谷見附橋を渡ると右手に説明板があります。

   

(説明板)
「国史跡江戸城外堀跡(四谷門地区)
 (指定:昭和31年3月26日付)
 牛込(飯田橋駅)から赤坂(赤坂見附)へ続く江戸城外堀は、寛永13年(1636)に仙台藩伊達家をはじめとする東国52家の大名により開削されました。この外堀普請は、約30年にわたる江戸城建設を締めくくる大規模なもので、外堀予定地やその周辺の多くの寺院や町屋が移転しました。
 四谷付近では、現在の舟町・愛住町と須賀町・若葉二丁目一番に寺院が集められ寺町が形成されます。また、半蔵門から続く麹町の十丁目西側に四谷門を築くため、麹町十一丁目から麹町十三丁目は、現在の四ツ谷一丁目にあたる部分に移動しました。そして、寛永15年には四谷大通(現新宿通り)や御堀端通り(現外堀通り)沿いに四谷伝馬町や四谷塩町が設けられ、今も続く四谷の町割りが完成します。
  平成22年 新宿区」

    

(説明板)
「江戸城西側の要衝 四谷門
四谷門から大木戸へ続く「四谷大通」は、甲州街道、青梅街道へと繋がり、甲信地方との往来のほか、近郊農村から江戸へ薪炭や青果等様々な生活物資を運ぶための幹線路でした。また、地下には多摩川の水を引いた玉川上水の石樋(本管)が埋設されています。玉川上水の石樋は、四谷門の手前で3系統の木樋に分かれ江戸城の本丸、吹上などに給水していました。」

「江戸城外堀跡は、寛永13年(1636)に江戸城内郭と城下を取り巻くように造られた延長約14kmの議のうち, 史跡指定された約4kmの範囲です。
 この説明板は、400年におよぶ江戸・東京の歴史を示す文化財を周知するために設置しました。
 千代田区・港区・新宿区では史跡江戸城外堀跡の保存・整備活用を共同で推進しています。」

  


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