Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 小林清親墓/井上安治墓

  ○ 小林清親墓(台東区元浅草)
  ○ 小林清親旧居地(墨田区横網)
  ○ 井上安治(探景)墓(川越市)


○龍福院 小林清親墓 台東区元浅草3-17-2

 龍福院は、御府内八十八ヶ所霊場82番です。
 (これまで行ったのは、17番長命寺 23番薬研堀不動院 24番最勝寺 29番南蔵院 46番弥勒寺
  47番城官寺 59番無量寺 86番護国寺)

 「最後の浮世絵師」と呼ばれた小林清親の墓(非公開)と、「清親画伯之碑」(公開)が境内にあります。
 

<門前>

    
 

<台東区説明板>

 門前にある台東区教育委員会の説明板です。

(説明板)
「小林清親墓
  所在地 台東区元浅草三丁目十七番十二号 龍福院
 小林清親は木版浮世絵師最後の人といえる。
 江戸の末、弘化四(一八四七)八月一日、浅草御蔵屋敷に武士の子として生まれ、上野戦争には幕府方として参加、明治維新後は、新聞、雑誌にさし絵を描き、生計を立てた。その前後、イギリス人ワーグマンに洋画を、河鍋暁斎、柴田是真からは日本画を修得、浮世絵師としての大成をはかった。
 やがて小林清親の版画には、上野、浅草を中心に新しい東京の風俗・建物が光と影によって描きだされ、それらは、明けゆく明治の時代を先取りしたものとして、ひろく一般に迎えられた。それは、広重や国芳ともちがう、写実のなかに木版の刷りの美しさを生かしたものだが、浮世絵興亡の歴史からみれば、最後の光でもあった。巷説、わが家が焼けたとも知らず、両国の大火を写生していた男である。
 大正四年(一九一五)十一月二十八日死去。六十九歳。寺内には小林氏墓「真生院泰岳清親居士」と清親画伯碑がある。
  平成四年十一月  台東区教育委員会」

   
 

<台東区と墨田区のどちらが正しい?>

 台東区の説明では、浅草御蔵屋敷の武士の子として生まれたとあります。墨田区の説明では、本所御蔵屋敷の武士の子として生まれたとあります。どちらが正しいのでしょうか。
 墨田区立図書館のサイトによると、小林清親の父は本所御蔵屋敷小揚頭頭取の茂兵衛で、母は浅草御蔵屋敷方小揚頭・松井安之助の娘である知加子とあります。
 父親は浅草御蔵屋敷と本所御蔵屋敷の両方を担当していたとすれば、または、母が実家の浅草御蔵屋敷で清親を出産し、清親は本所御蔵屋敷で育ったとすればつじつまはあいます。
 

<幕臣から絵師へ>

 慶応元(1865)年の徳川家茂上洛の際には勘定所下役として随行し、そのまま大坂にとどまり、
 慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いに加わります。上野戦争に幕府軍として参加しています。
 江戸幕府崩壊後は他の幕臣たちと共に静岡に下りました。
 明治7(1874)年に東京に戻り、絵師を志します。
 明治9(1876)年に「東京名所図」シリーズを版行し人気絵師となりました。
 

「小林清親肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
  弘化4年8月1日〜大正4年11月28日(1847年9月10日〜1915年11月28日)

  
 

<龍福院本堂>

 門の正面に本堂、左手に社務所があります。

    
 

<清親画伯之碑>

 本堂向かって右に、「清親画伯之碑」があります。

 「小林家(清親)墓地は公開しておりません 当院」の掲示があります。

  
 

 公開されているのは「清親画伯之碑」です。昭和6年(1931)年の建立です。

   

 
 碑裏には清親の法名「真生院泰岳清親居士」などが刻まれています。

  
 

<線刻碑など>

 地蔵尊が線刻されている碑が向かって左脇にあります。
 碑の右側には力石かもしれない石があります。

   
 

<両国大火>

 説明板に「わが家が焼けたとも知らず、両国の大火を写生していた男である。」とあります。
 以下は、両国大火の絵です(国立国会図書館蔵)。
 その他の作品は、それぞれの項目の中で掲載しています。

      浜町より写両国大火          両国大火浅草橋           両国焼跡
    
 

 「帝国議事堂炎上之図」
  藝刻議事堂の炎上も描いています。

  
 

<光線画>

 小林清親の作品は、明暗を強調し輪郭線を用いない空間表現で、「光線画」と呼ばれました。
 後年は、「近接拡大法」による「武蔵百景之内」を版行しています。

          「川口鍋釜製造図」(光線画)                     「隅田川夜」(光線画)
   
 

  「武藏百景之内 道灌山」(近接拡大図)    「武藏百景之内 木母寺梅若神社」(近接拡大図)
   
 

<その他>

「風俗三十二相 高貴徳川継絡之写像 十五代将軍慶喜公」(小林清親 明治20年)

 歴代の徳川将軍を描いています。小林清親が仕えた「十五代将軍慶喜公」の拡大です。

   


小林清親旧居地 墨田区横網1-10-8

 旧古河庭園の東の外周路に、説明板「小林清親旧居地」があります。

(説明板)

「絵画と文学 小林清親旧居地 3
 明治の浮世絵版画家で、最後の浮世絵師とも言われる小林清親は、江戸本所の御蔵屋敷で生まれ、この辺りで暮していました。
 七人兄弟の末子で、明治維新の際は大坂や静岡などを転々としますが、その後、帰京し、洋風木版画の『東京名所図』を出版しました。その西洋風の画風が「光線画」として人気となり、浮世絵版画に文明開化をもたらしたといわれています。
 明治十四年(一八八一)の両国の大火後は、光線画から遠ざかり、「清親ポンチ」というポンチ絵を描くようになり、その後、錦絵の衰退により肉筆画を多く描くようになっています。近世から近代への絵画の変遷を体現した画家といえるでしょう。
 (作品掲載)両国花火之図 小林清親作  墨田区」

    
 

「両国花火之図」(小林清作)(国会図書館蔵より)

 説明板に掲示されている作品です。

  


井上安治

 小林清親の弟子、井上安治(探景とも号す)は光線画を継承しましたが、26歳で夭逝しています。
 元治元(1864)年〜 明治22(1889)年9月14日

         「東京名所 鹿鳴館」(光線画)                 「駿河町夜景」(光線画)
   
 

<井上探景(安治)ノ墓> 川越市末広町2-4-2 行傳寺墓地

 墓所は浅草にありましたが、昭和4(1929)年に父親の出身地である川越に移されました。
 小林清親はその早すぎる死を悼み、「つえ折れて ちからなき身や 萩の枝」という手向けの句を霊前に供えました。

 「井上家累代之墓」の脇に、「井上探景ノ墓」と刻まれています。

     
 

○行傳寺 川越市末広町2-4-2

 賑わう蔵造りの街並みから石畳の参道が続き、山門に至ります。

 注意書があります。
 「浄域 内外倶浄 山内に公共の施設道路はありません
  無断駐車 勝手な振る舞い 犬を連れ入る《禁止》」
 「STOP KEEP OUT 参拝以外の立入お控え下さい WORSHIPPER ONLY」
 行傳寺は観光の寺ではないので、建物内への拝観は出来ません。

     

     
 

 鐘楼がないのは、「時の鐘」が焼失した際、行傳寺の鐘を貸し出し、変遷を経て、浄心寺(江東区平野)にあります。
 (カワゴエールを参照しました。浄心寺については、こちらで記載済です。)

  浄心寺の鐘楼

    
 

(説明板)
「日蓮宗行傳寺
 徳治元年(一三〇六)に開かれた法華道場の小庵を前身とし「大本山池上本門寺」「本山鎌倉妙本寺」の両山 第四世大鷲妙泉阿闍梨日山上人の教化を受けた豪族上田氏一門の丹精で 永和元年(一三七五)【朝田山行傳寺】と号し開創、開基日山上人の後継には両山第八世の大運阿闍梨日調上人 以後も代々名僧知識が住職になり 法燈連綿と今日に至る 創建の地は諸説あり、天文年間に川越城一郭の松郷に所在 元和五年(一六一九)地域の大火で類焼に及び堂宇伽藍悉く烏有に帰し 現在地へ移転 文化九年(一八一二)現本堂建立 『良質な欅材を用いた見事な建造物』と寺院建築の諸氏も称賛、由緒伝統を示す什宝あまた格護《通常非公開》」

  


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