清澄庭園は、岩崎家三代が築いた庭園です。
「岩崎弥太郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
天保5年12月11日〜明治18年2月7日(1835年1月9日〜1885年2月7日)
三菱財閥の創始者です。事業は弟弥之助、長男久弥に継承されました。
「岩崎弥之助肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
嘉永4年1月8日〜明治41年3月25日(1851年2月8日〜1908年3月25日)
三菱財閥2代目です。初代の岩崎弥太郎の弟です。
「岩崎久弥肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
慶応元年8月25日〜昭和30年12月2日(1865年10月14日〜1955年12月2日)
三菱財閥3代目です。
<東京都指定名勝 清澄庭園>
「一説には江戸の豪商、紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と伝えられています。享保年間(1716〜1735年)に下総国、関宿藩主久世大和守の下屋敷となり庭園のもとが形造られました。
明治11(1878)年に岩崎彌太郎がこの邸地を含む一帯約3万坪を取得し社員の慰安や貴賓を招待する場所として造園を計画、明治13(1880)年に「深川親睦園」を開園しました。その後も造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水をはじめ築山、周囲には全国から取り寄せた名石を配して明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」として完成しました。関東大震災後、大正13(1924)年、震災被害の比較的少ない東半分が岩崎家から東京市に寄付され、「清澄庭園」として復旧、整備して、昭和7(1932)年7月に東京市の公園として開園しました。また、昭和52(1977)年には、庭園の西側に隣接する敷地を開放公園として追加開園しました。昭和54(1979)年3月31日に、「清澄庭園」は東京都の名勝に指定されています。
※なお、大正12(1923)年9月の関東大震災や昭和20(1945)年3月の大空襲の時には避難場所として多くの命を救いました。」(パンフレット抜粋)
<大泉水>
<涼亭>
<石仏群> 江東区文化財
これらの石造物の由来は不明ですが、明治時代、岩崎家が庭園を造成する際に出土したものと言われています。
@阿弥陀供養塔 延宝7(1679)年
A庚申塔 寛文10(1670)年
B庚申塔 文化12(1815)年
C馬頭観音供養塔 安永3(1774)年
<芭蕉句碑> 江東区文化財
設置予定の芭蕉稲荷神社(こちらで記載)の敷地が狭かったため、清澄庭園に建立された芭蕉句碑です。
(説明板)
「松尾芭蕉(寛永21年(1644)〜元禄7年(1794))は、延宝8年(1680)から元禄7年(1694)まで、深川の地の草庵に住み、貞享3年(1686)にこの句を詠みました。古池のあったこの草庵は芭蕉庵と呼ばれ、清澄庭園より600mほど北、現在の芭蕉庵史蹟である芭蕉稲荷神社あたりにあったと言われています。
この句碑は、松尾芭蕉の高弟、宝井其角の門流、其角堂九代目晋水湖により建設が呼びかけられましたが、芭蕉庵史蹟の敷地が狭かったため、昭和9年10月(1934)、清澄庭園に建立されました。右下には、俳聖松尾芭蕉の功績を後世に伝えるために句碑を建立し、芭蕉庵の史蹟に小祠を安置したことが記されており、その小祠が現在の芭蕉稲荷神社です。(江東区登録文化財)」
<清澄園記> 江東区文化財
大正13(1924)年6月に岩崎久彌が清澄庭園を東京市へ寄付したことを称えた石碑で、昭和4(1929)年9月に建てられました。