○ 金六町
○ 三十間堀跡
○ 芝口御門跡
○ 新橋と蓬莱橋
○ 新橋の親柱
○ 銀座柳の碑
「江戸名所図会 金六町志がらき茶店」
しがらき茶店は金六町にあった待合茶屋で、繁盛していました。
現在の「信楽通り」の由来とされています。
店先に茶釜が見えます。
通りには、「枇杷葉湯売り」が見えますが、茶屋で休んでいるのか店前で営業しているのか不明です。
茶屋の前で牛頭天王の紙牌をばらまいて子どもたちを集めている(拾った子の親に銭を乞いに行きます)「わいわい天王」が見えます。
「江戸名所図会 新橋 汐留橋」
左から右に流れている川が汐留川で、汐留川に流れ込んでいるのが三十間堀です。
汐留川には「新橋」と「汐留橋」が架かっています。「通町」とあるのは東海道です。
新橋の北詰東側に「金六町」がありました。
{江戸切絵図}
「江戸切絵図」から、「金六町」部分の抜粋です。
{現在の地図}
御門通り公衆トイレ脇に、説明板「三十間堀跡」と、三十間堀の築石及びり旧料亭蜂龍跡地(信楽茶屋跡)から発堀された約一トン半の石が配されています。
(説明板)
「三十間堀跡
所在地 中央区銀座一丁目〜八丁目地区
江戸時代から昭和二十七年(一九五二)まで、現在の中央通りと昭和通りの間には南北に長い入堀がありました。慶長十七年(一六一二)に完成したこの掘割は、江戸城下の埋め立て造成の過程で舟入堀として整備されました。なお、三十間堀の名は堀幅が三十間(約五十五メートル)あったことに由来します。
また、当初の三十間堀川は、京橋川から鉤の手状に曲がった後に南流していましたが、明治三十九年(一九○六)の水路工事によって京橋川から汐留川まで真っすぐ南流する堀川となりました。なお、文政十一年(一八二八)には、河岸地の面積を広げるために護岸が埋め立てられており、堀幅が十九間(約三十五メートル)にまで狭められました。
戦後、この掘割は、がれき処理のために昭和二十三年(一九四八)から埋め立て工事が行われ、同二十七年にその姿を消しました。
令和二年三月 中央区教育委員会」
(説明板)
「向かって左側に積み上げた五個の築石は、三十間堀のもので、八丁目十二番地九号護岸より発堀されたものです。
右側の石は、約一トン半あり八丁目十番地の四号、旧料亭蜂龍跡地から発堀されたもので、此所は江戸名所図絵にも描かれ、今日の信楽通りの源である「信楽茶屋」跡と云い伝えられております。」
<銀座三原通り>
現在の「銀座三原通り」が、かつての三十間堀跡となります。
(参考)
明治時代に三十間堀から掘出されたといわれる(諸説の一つ)銀座出世地蔵尊が銀座三越の9階にある銀座テラスに祀られています(こちらで記載)。
宝永7(1710)年、朝鮮の聘使の来日に備えて、国の威光を顕示するために新橋の北詰に設けられた枡形門が芝口御門です。
新橋は芝口橋と改称されました。
芝口御門は享保9(1724)年に焼失し石垣も撤去され、芝口橋は新橋の旧称に復しました。
高野一郎氏の絵「芝口御門」が刻まれています。
(説明板)
「芝口御門跡
所在地 中央区銀座八?八・九・十付近
ここの南方、高速道路の下には、もと汐留川が流れ、中央通り(旧東海道)には、昭和三十九年まで新橋が架かっていました。
宝永七年(一七一〇)、朝鮮の聘使(へいし)の来朝に備えて、新井白石の建策にもとづきわが国の威光を顕示するため、この新橋の北詰に、現に外桜田門に見られるような城門が建設されて、芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称されました。
城門は橋の北詰を石垣で囲って枡形とし、橋のたもとの冠木門から枡形に入って右に曲がると、渡櫓があって堅固な門扉が設けられていました。しかしこの芝口御門は建築後十五年目の享保九年(一七二四)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去され、芝口橋は新橋の旧称に復しました。
昭和五十二年十月 中央区教育委員会」
<銀座御門通り/信楽通り>
御門通りには、新聞記事「銀座の柳は安曇野産だった」により、昭和62(1987)年に長野県安曇野市(当時は穂高町)が中央区に寄贈した柳が植えられています。
明治7(1874)年、汐留橋の袂(木挽町)に「蓬莱社」ビルが竣工、蓬莱社の出資金により木造の汐留橋は同年に「蓬莱橋」に改架されました。
「東京名所尽しん橋より蓬莱橋之図」(三代広重 都立図書館蔵)
江戸時代、格式の高い橋には擬宝珠(ぎぼし)がつけられました。
江戸城外で擬宝珠を有していたのは日本橋、京橋、新橋です。
手前の新橋には、擬宝珠が描かれています。奥の橋は蓬莱橋です。
「東京名所四十八景」「芝口はし」(昇斎一景 都立図書館蔵)
広重の江戸名所百景に倣ったような構図です。
近接の新橋の上に西洋人が描かれているのが時代を伺わせます。
奥に蓬莱橋が見えます。
「芝口ヨリ虎ノ門」(井上安治 明治10年 都立図書館蔵)
芝口から、蓬莱橋と反対方向の虎の門方向の光景です。
遠景には工部大学校の時計塔が見えます。
東京高速道路(首都高速ではありません)の下に「新橋の親柱」が一基残されています(港区文化財)。
<港区の文化財 新橋親柱>
(標柱)
「港区の文化財 新橋親柱
新橋親柱は、かつて新橋と銀座の間を流れていた汐留川に架けられていた橋で、昭和三十八年(1963)、川の埋め立て工事とともになくなりました。現存する新橋親柱は、大正十四年(1925)に、長さ二十m、幅二十七mの鉄筋コンクリートで作られた橋の一部です。地域名の由来を今に残す貴重な遺構です。
平成三十年(2018)年一月十五日 港区文化財総合目録登録 港区教育委員会」
「新橋より銀座通りを望む」(東京名所写真帖 明治43年)
新橋、銀座通りの路面電車、左手に博品館、右手に金六町です。
「銀座柳の碑」が建てられ、「銀座の柳二世」が植えられています。
(碑文)
「銀座柳の碑
西條八十作
中山晋平曲
植えてうれしい銀座の柳
江戸の名残のうすみどり
吹けよ春風紅傘日傘
今日もくるくる人通り」
「銀座文化碑 2
昭和二十九年四月一日 銀座通連合会」
「青山石勝刻」
「銀座の柳二世」
「東京開化狂画名所 新橋通街藝妓往来ニ轉ぶ」(月岡芳年 都立図書館蔵)
江戸時代末期の木挽町の芝居小屋を取り巻く芝居茶屋、船宿、料亭の需要に応じて町芸者が起こりました。
明治になって東銀座から築地一帯の新橋花柳界は、東京で一番の花街となりました。
描かれた状況がわかりませんが、夜道の中、人力車が植えられたばかりの柳に気が付かず、
柳を支える支柱にひっかかり、乗っていた芸者が放り出されたのでしょうか。
銀座の街路樹として柳が植えられるようになったのは、明治10(1877)年で、芳年は植えられたばかりの柳を見たのでしょう。
東京新橋組合(中央区銀座)は浅草寺本堂正面に大提灯「志ん橋」の奉納を続けています。