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 留岡幸助創設・家庭学校跡


○家庭学校跡 豊島区上池袋1-30-20 上池袋東公園

 上池袋東公園内には、かまどスツールなど、災害時を意識した設備があります。
 園内には、日本の福祉の先駆者である留岡幸助が開設した「家庭学校跡」の説明板が設置されています。
 豊島区の公園説明サイトではスルーされているのが残念ですが、教育委員会が説明板を設置しただけでも感心します。 

    

     

<家庭学校跡>

 説明板「家庭学校跡」が、南の公園入口に設置されています。
 明治32(1999)年1月に巣鴨村に家庭学校が設立されました。
 なお、留岡幸助は、明治31(1998)年に巣鴨監獄典獄に着任した有馬四郎助より、巣鴨監獄の獄誨師に採用されています(本願寺の反発で騒動となる)。

(説明板)
「家庭学校は、巣鴨村大字巣鴨(現上池袋一丁目三十七番一帯)にあった感化教育施設である。
 設立者の留岡幸助(とめおかこうすけ)は、元治元(一八六四)年に備中国(現岡山県)で生まれた。幼少期に経験した身分制社会の不条理から、すべての人間が平等に生きられる社会を希求するようになり、キリスト教にその理想を見出した。同志社英学校神学課卒業後、明治二十四(一八九一)年から北海道空知集治監の教誨師をつとめるなかで、「犯罪を犯すに至った原因は、少年期の環境が悪いためである」という考えをもつ。同三十二年一月、厳本善治の斡旋によって巣鴨村の三六○○坪の土地を購入し、同年十一月二十三日に家庭学校を開校した。
 家庭学校では、当時まだ自然豊かであった巣鴨村で、農業や牧畜の作業とキリスト教を通じて、不良少年の感化教育が行われた。生徒は校内の宿舎で父親役・母親役の教師と寝食を共にし、家族のような共同生活を送った。
 明治三十七年、日本初の慈善事業従事者養成機関として、慈善事業師範部を校内に設けた。明治四十二年、東京府代用感化院に指定。大正三(一九一四)年、北海道紋別郡遠軽に社名渕分校(現北海道家庭学校)、同十二年に神奈川県に茅ケ崎分校を開設した。
 昭和六(一九三一)年、留岡が倒れたことにより、家庭学校は東京府代用感化院の指定を辞退し、茅ヶ崎分校を閉鎖した。同九年二月五日、留岡が七十歳で死去する。巣鴨の校地は、日本初のガン専門の研究機関である癌研究所(昭和九年開設。平成十七年有明へ移転)及び付属治療所に譲渡した。
  平成二十九年三月三十一日  豊島区教育委員会」

     

「家庭学校 第1編」(留岡幸助 警醒社 明治34,35年 国立国会図書館蔵)

     

     

(参考)
岡山医療福祉六峰」 岡山市北区祇園 旭川荘内

 「留岡幸助」「石井十次」「矢野恒太」「山室軍平」「三木行治」「川崎祐宣」のレリーフが設置されています。
 皆さん、岡山県出身です。
 「一路白頭に至る 留岡幸助(1864〜1934)」

     

 福祉の先人たちは、名言を残されています。
 「この子らを世の光に」(糸賀一雄 近江学園創設者)
 「この子は私である。あの子も私である。どんなに障害が重くともみんなその福祉を守ってあげなければと深く心に誓う。」
  (小林提樹 島田療育園創設者)
 「一路白頭に至る」(留岡幸助 家庭学校創設者)
 「流汗悟道」(谷昌恒 北海道家庭学校第5代校長)

(参考)
 北区滝野川には、北区の説明板「滝乃川学園跡」が設置されています。(こちらで記載


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