○ 葛西神社
○ 境外社号標
○ 表参道
・葛西霊松の碑(山縣有朋の篆額)
○ 脇参道
・日露戦役紀念碑(東郷平八郎の書)
○ 旧道参道
・石造鳥居(葛飾区文化財)
・家康の茶碗
○ 弁天池周辺
○ 境内社など
・葛西ばやし碑(葛飾区無形文化財)
○ 社殿横の境内社など
・鍾馗像(葛飾区文化財)
・勝海舟直筆の碑
○ 富士塚(葛西金町富士)
○ 路傍の庚申塔
元暦元(1184)年に葛西清重が、下総国香取神宮の御分霊を勧請し葛西三十三郷の総鎮守として香取宮を創立したと伝えられています。
「経津主神」「日本武尊」「徳川家康公」の三柱を奉祭しています。
葛西囃子発祥の地として知られています。
明治の神仏分離に際し、社号を香取神社と改め、別当寺だった龍香山吉祥院は廃寺となっています。
明治14(1881)年に、葛西清重の功績を長く伝えるため、葛西神社と改称しました。
(説明板)
「史跡 葛西神社(葛西ばやし発祥の地)
当社は、むかし香取宮と称し元暦元年(一、一八四)下総国香取神宮の御分霊を勧請し葛西三十三郷の総鎮守として創立したものと伝えられ、天正十九年(一、五九一)十一月徳川家康より御朱印十石を賜わった、享保年間当社の神官能勢氏の創作した「和歌ばやし」は後「葛西ばやし」として江戸市中をはじめ近郷一帯の祭礼時に「はやし」として流行し、今なお当地方の郷土芸能の一つとして伝わり、昭和二十八年十一月三日、東京都無形文化財に指定され今日に至る。
葛飾区 葛飾区観光協会」
「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
村尾嘉陵は文化14(1817)年に半田稲荷社へ参詣「半田いなり詣の記」を記しています。
図に「半田社」のほか、「香取大明神」も描かれています。
「水戸道」や「岩附慈恩寺道」、松戸の渡しも見えます。
葛西神社の戦前の社号標が旧水戸街道沿に建っています。
(正面) 「郷社 葛西神社」
(左側面)「陸軍大将林銑十郎敬書」
(裏面) 「昭和十五年十月 奉納 二葉喜太郎」
<社号標/正面鳥居>
正面鳥居は、嘉永7(1854)年の建立です。
<手水舎>
「東照公御」が掲げられています。
「人の一生は重き荷を負ふて遠き道をゆくが如し。。。」
<神社由緒沿革>
石碑の石板に「由緒沿革」が刻まれています。
<葛西神社のイチョウ> 葛飾区天然記念物
境内にあるイチョウのうち三株(表参道入口右側、脇参道右側本殿右側)が葛飾区の天然記念物です。
(説明板)
「葛飾区指定天然記念物 葛西神社のイチョウ
所在地 東金町六丁目10番5号
指定年月日 昭和57年2月13日
葛西神社にはイチョウの立木が数株あります。そのうち天然記念物として指定しているイチョウはつぎの3株です。
1.目通り幹囲3.5m・樹高約24m
神社本殿の向かって右側に立っています。
2.目通り幹囲3.4m・樹高約25m
神社脇参道の右側にあります。
3.目通り幹囲3.5m・樹高約23m
神社表参道入り口の右側に立ち、根元に空洞があります。
いずれも雄株で樹勢も旺盛です。
(目通りは、目の高さの直径のことです)
葛飾区教育委員会」
<弥栄銀杏(いやさかいちょう)>
天然記念物の指定は受けていませんが、表鳥居左側の「弥栄銀杏」です。
(説明板)
「弥栄銀杏(いやさかいちょう)
明治の初年迄は金町の昼なお暗き明神森の大銀杏として知られていたが、度重なる此の地方の水害のため官命により排水を容易にする手段として数々の大木と共に伐採を余儀なくされた。しかし此の樹木の生命力は強く、再び自力で芽を吹き出して雄々しく成長して今日に至り、其の旺盛な生命力を称え『弥栄銀杏』と命名した。
(俗称 曾孫生え銀杏(ひこばえいちょう))」
<大鳥居>
昭和4(1929)年奉納の大鳥居です。
「葛西霊松」碑と、「霊松保存紀念之碑」があります。
記念碑は、陸軍大将山縣有朋による篆額、碑文は依田百川の撰。明治27(1894)年の建立です。
葛西神社のHPによると、宝物殿に霊松の切り株が保存されています。
<神楽殿>
大正12(1923)年に建立の神楽殿です。
<社殿>
<社号標>
<江戸・東京の農業>
参道右手に「江戸・東京の農業」のパネルが2つ掲示されています。
千住ネギ、金町コカブはともに千住市場(やっちゃ場)に出荷されました。
(説明板)
「江戸・東京の農業 千住ネギの産地
葛飾区北部にあたる金町、水元、新宿地区一帯は、昭和の中期までいわゆる千住ネギの産地として全国的にも有名でした。
当地区の精農家たちは、もともと千住付近(現在の荒川区と足立区にまたがる地域)にあった古い「熊手ネギ」や「砂村ネギ」などから選抜改良して、良質な「根深一本葱」を競って作りだし、これらを総称して「千住ネギ」といわれてきました。中でも地元が生んだ「金長ネギ」は、その品質の良さから全国的に広く作られていきました。
当地での千住ネギ栽培の起源は不明ですが、本格的生産は明治中期以降とされ、日清、日露の戦勝景気で需要も急増し、庶民の食生活を豊かにしてきました。
土質が適していた当地産の千住ネギは軟白部分が長くて締まりも良く、煮くずれしないため、とくにすき焼きなどの鍋物に好んで使われました。
千住市場には、江戸時代から千住ネギの荷が集まり、当地では大正の頃、正月の初荷に1束150kgの巨大な荷姿のネギを出荷して祝うなど、当時の産地の勢いと、農家の心意気がうかがえます。
平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法施行五十周年記念事業 葛飾農業協同組合」
(説明板)
「江戸・東京の農業 金町コカブ
金町コカブは、明治末期に金町(現在の葛飾区東金町)の長谷緑之助が、下千葉中生というコカブを、4月に早どりできるように改良しました。
当時は、千住市場に出荷され、新カブと言われていましたので、高級料亭等に高値で取り引きされていました。
その後は金町一帯で広く栽培されるようになり、さらに、東京から全国に広まったカブの品種です。
「金町コカブ」は春に花芽が出にくい性質をもっているため、春の栽培がしやすい特徴を生かして、金町周辺では盛んに生産が行なわれました。
青物の乏しい春先、霜や寒さで傷んでいない青々とした葉や真っ白で光沢のあるカブは消費者に大変喜ばれました。
平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法施行五十周年記念事業 葛飾農業協同組合」
参集殿の横にある明治40(1907)年に建立の日露戦役紀念碑です。東郷平八郎による書です。
日露戦役紀念は、乃木希典揮毫に次いで多いのが東郷平八郎揮毫です。
東郷平八郎は神社の社号標の揮毫も多々見られます。
閉店した「柴又川甚」の玉垣がありました。
(碑文)
「戦役紀念
海軍大将東郷平八郎書」
<記念碑>
「御鎮座八百周年記念」
昭和60(1985)年に御鎮座八百周年大祭を祝しての建立です。
葛飾区文化財に指定の豊臣秀吉公家臣浅野長吉氏の御朱印状及び徳川家康公ご朱印状の取り次ぎ文書が刻銘されています。
「御造榮記念」
現社殿が竣工した昭和40(1965)年の建立です。
北白川房子様による御献詠の御歌が刻銘されています。
<金町招魂社>
「明治天皇御製」碑があります。
<参集殿>
<力石>
(説明板)
「力石
当神社に奉納された重さ五十八貫(217キロ)をはじめ5つの力石は手で触れることにより力をいただけると言われています」
<「三猿」「犬」>
参集殿横の「三猿」、力石横の「犬?」の置物です。
江戸川に通じる旧道に建立された、宝暦13(1763)年と葛飾区最古の石鳥居です。
石燈籠は宝暦8(1758)年銘です。
葛飾区教育委員会の説明板には「宝永3年(1760)銘の狛犬」とありますが、
宝永3年は1706年であり、1760年は宝暦10年であり、意味不明な記載です。
(説明板)
「葛飾区登録有形文化財 石造鳥居
所在地 葛飾区東金町六丁目10番5号
登録年月日 平成6年(1994)2月22日
この石造鳥居は最も一般的な明神鳥居です。柱が八字形に傾斜し、上の笠木などが曲線を描き両端が反り上がっているのが特色です。
一部補修されていますが「宝暦十三年未天(1763)二月吉日別当吉祥院現住長成」「大願主 惣氏子中」の刻名があり、区内に現存する最古の石造鳥居です。今は嘉永7年(1854)に造られた大鳥居が新道に面して建っていますが、この鳥居は江戸川堤に通じる旧道に建てられていた正面鳥居だと思われます。周辺には元禄10年銘の手水鉢、宝永3年(1760)銘の狛犬、宝暦8年(1758)銘の灯燈などがあり葛西神社の昔をしることができます。
葛飾区教育委員会」
<狛犬>
宝永3(1706)年?の狛犬です。
<手水鉢>
元禄10(1697)年銘の手水鉢です。
<聖観音像>
寛保元(1741)年銘の聖観音像です。
<石碑>
「新編武蔵風土記稿 葛飾郡之八 香取社地図」
新編武蔵風土記稿に描かれている香取社ですが、江戸川に向かって鳥居が描かれています。
挿絵に茶碗も掲載されており、何だろうと読んでみると、
徳川家康公が鷹狩の際に香取社でお茶を飲み、その茶碗が別当の吉祥院の寺宝となっていると記されています。
<塀の外>
塀の外からは入れませんが土手道路に案内看板が建っています。
「祭囃子発祥の社」とあります。
<厳島神社鳥居>
<庚申石>
詳細不詳。
<福神殿>
<辨財天石祠/大黒様と恵比寿様の石像>
<撫蛇>
<厳島神社(金町弁天社)>
掲示にある瀬崎(現八潮市)は、現草加市かと思います。
(掲示)
「厳島神社(金町弁天社)
葛西神社の境内にある厳島神社(金町弁天社)は、出世・金運・芸能・良縁等をつかさどる神様の市杵島大神(弁天様)をお祀りしています。
その昔平家の人達が東国に移り住んだ際に、氏神として信仰の篤かったご尊像を奉戴し、武蔵国瀬崎(現八潮市)の里に鎮座され、その尊像は古く神さびていました。その後、信仰者が弁天様と共に金町に移り、縁あって葛西神社の地に祀られ、現在に至っております。」
<水神社>
天保8(1839)年の造営、明治36(1903)年の再建です。
<道祖神>
元禄13(1700)年の造営です。
<石祠群>
神楽殿と宝物殿の間にある境内社と石碑です。
<神明社>
平成2(1990)年に再建の神明社です。
<諏訪神社>
安政5(1858)年に建立の諏訪神社です。
どこに属しているのわかりませんが、文政3(1820)年銘の手水鉢があります。
「葛西ばやし」は、享保の初年に香取社の神主能勢環氏が和歌ばやしという一種のはやしを青少年に教えたのがその起因といわれています。
(ウキペディアから引用)
「東京都は1953年(昭和28年)11月3日、東都葛西囃子睦会による葛西囃子(江戸川区)を無形民俗文化財に指定した。これに対し長年、本家争いを繰り返してきた葛飾区側は猛抗議を行った。これに対して東京都は1954年(昭和29年)4月9日、葛飾区の葛西囃子、神田囃子も包括して「江戸の祭囃子」として再指定を行った。」
(碑表)
「東京都指定無形文化財 葛西ばやし碑」
(碑陰)
「葛西ばやしは葛飾方面に古るくから伝はる郷土芸術の一とつである享保の初年葛西金町の鎮守香取神社の神主能勢環氏の郷土の青少年の情操に思ひをいたし和歌ばやしといふ一種のはやしを教え次第に江戸近郷の祭礼に愛賞され神霊を慰めたのがその起因といわれる後ちに葛西はやしとなって爾来文化の進取と共に郷土色豊かな祭りばやしとなって現代に至ったのである昭和二十六年区内有志により葛西ばやし保存会を創設し一段と技能の研精に努め同二十八年十一月三日東京都より無形文化財の指定を受けたのである偶々今秋社殿の落慶を記念しこれが起因を石に刻してもって後代に伝ふ
昭和四十年十月建之
葛西神社宮司 葛西ばやし保存会」
<稲荷社>
稲荷社脇には石祠も祀られています。
稲荷社前に不詳の碑があります。
<宝物殿>
安政年間(1855〜60)の建造という旧社殿です。
<葛西天神社>
神牛がいます。
元禄8(1695)年に建立された鍾馗像(しょうきぞう)です。
鍾馗とは、端午の節句に人形や絵で飾る神様です。
鍾馗様は絵には多く描かれていますが、石像は初めて見ました。
(説明板)
「区指定有形民俗文化財
葛西神社鍾馗石像
所在地 葛飾区東金町六丁目10番5号
特定年月日 昭和58年(1983)2月21日
この石碑は、右手に剣を待ち、左手で小鬼をつかむ立像を浮き彫りにしたものです。像の光背の左右には「奉造立鍾馗為悪魔降伏 金町村施主敬白 念仏講結同行四十一人元禄八乙亥七月十七日」の銘があります。
銘文から元禄8年(1695)金町村の念仏講の人々が悪魔降伏を祈って建てたことがわかります。念仏講は宗派を越えて結成され、来世での極楽往生を願い、庶民の間に広がりました。
念仏を勤め会食をしたり、葬儀の際には助け合うなど、念仏による相互扶助的な信仰共同体として各地に普及しました。
鍾馗は疫鬼を退け、魔を除く神として信仰されたものです。画像は、室町時代にきかのぼって見られますが、石像は他にほとんど例がなく、この鍾馗石像は大変貴重なものです。
●材質 石材 ●大きき 地上高111cm 像高72cm
葛飾区教育委員会」
(参考)
「端午市井図」(東都歳事記)
鍾馗(しょうき)様の幟が描かれています。
「豊歳五節句遊 端午の節句」(香蝶楼国貞)
足元に、鍾馗(しょうき)様を描いた幟と鯉のぼりが見えます。
「名所江戸百景 水道橋駿河台」(広重)
武家は、端午の節句には家紋の幟や吹き流し、鍾馗(しょうき)様の幟を上げました。
鯉のぼりを揚げるのは町人の文化でした。
「平井諏訪神社」
平井諏訪神社で見た鍾馗(しょうき)様の幟です。
鍾馗様は、疫鬼を踏みつけています。
<社号標「香取神社」(勝海舟直筆)>
勝海舟が葛西神社(当時は香取神社)に立ち寄った際に書いた、
社号標「香取神社」(明治13(1880)年)です。
<三峯社>
<祓戸神社>
明治39(1906)年に江戸川の改修工事で崩され、明治44(1911)年に新たに築造された富士塚です。
登って参拝できます。
号目石が一合目から五合目までと、九合目がありました。
山頂に「富士大神」
葛西神社前の旧水戸道に文政2(1819)年銘(再興)の庚申塔が建っています。