Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 神田神保町

  ○ 歴史と文化の散歩道「神田本屋街散歩」
  ○ 町名由来板「神田神保町一丁目」
  ○ 町名由来板「神田神保町二丁目・一ツ橋二丁目」
  ○ 町名由来板「神田神保町三丁目」


○歴史と文化の散歩道「神田本屋街散歩」 千代田区神田神保町2-1-1

 神保町交差点に、歴史と文化の散歩道「神田本屋街散歩」が設置されています。

  

(説明板)
「歴史と文化の散歩道 神田本屋街散歩
 神田本屋街散歩は、靖国神社から靖国通りを神田小川町まで至る約1.7kmのみちのりです。数多くの書店とスポーツ用品店が立ち並び、学生たちが行き交う活気ある街を歩く散歩道です。
 旧飯田町と神田本屋街
 江戸時代、このあたり一帯は武家地であり、町屋は九段坂北側の旧飯田町だけであった。この旧飯田町は、かつて文人などが多く住み、滝沢馬琴ゆかりの地でもあり、明治時代には、尾崎紅葉を主宰者とする硯友社があった。
 神保町周辺は、明治以後、周辺の大学の拡張に伴って学生の街として発展した。震災復興後の昭和初期には銅板や装飾を施した町並みが続き、古書店が数多く軒を並べる町となった。この本屋街の規模は世界に類を見ないもので、周辺の出版関連会社とともに、日本の文化や科学を支える役割を担っている。」

   

「神田神保町書店街」(大東京寫眞帖 1930年)

 九段坂から神田神保町書店街を望んだ光景です。左手の駿河台にニコライ堂が見えます

  


○町名由来板「神田神保町一丁目」 千代田区神田神保町1-3

   

(説明板)
「千代田区町名由来板 神田神保町一丁目
 江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。そこに表神保町、裏神保町などの町が誕生したのは、明治五年(1872)のことです。裏神保町は、大正十一年(1922)に通神保町と改称したのち、表神保町、表猿楽町などとともに、昭和九年(1934)、神保町一丁目となりました。さらに昭和二十三年(1948)、神田区と麹町区が合併して千代田区ができると、現在の神田神保町一丁目になりました。
 町名の由来は、元禄年間(1688?1704)のころ、旗本の神保長治が広大な屋敷をかまえ、そこを通っていた小路が「神保小路」と呼ばれるようになったためといわれています。 神保一丁目町会」

「わが街、神田神保町  作家・逢坂剛
 神保町という町名の由来が、江戸時代の旗本神保家の屋敷からきたことは、すでによく知られている。
 試みに、江戸城下の変遷絵図集「御府内沿革図書」を開くと、早くも十七世紀後半(延宝年間)の図上に、「神保新右衛門」の名前が見つかる。屋敷の場所は、今の白山通りからさくら通りにはいった左側、有斐閣ビルのあたりになる。神保家の名は、幕末の切絵図にも出てくるから、江戸時代を通じてずっとこの地に、屋敷があったことが分かる。
 神保家ほどではないが、わたしの神保町との付き合いも、きわめて長い。小学生のころから数えれば、およそ半世紀にも及ぶ。高校生のころまで、本を探しによく足を運んだものだし、かよった大学は神田駿河台、就職した広告会社は神田錦町と、いずれも神保町と目と鼻の先の距離にあった。あまりに長い付き合いなので、ついそのよさを忘れてしまいがちだが、かりにわたしが東京から他の土地に移住して、神保町を離れることになったらと考えると、冷や汗を禁じえない。この街に対する愛着は、いわば自分の家や書斎を大切にする気持ちと、よく似ている。
 神保町は〈本の街〉といわれ、大型新刊書店や大小無数の古書店がひしめいて、独特の雰囲気を醸し出す。しかし、神保町の魅力は本だけにとどまらない。この街は〈食〉に関しても、並なみならぬ文化を持っている。中華をはじめ、イタリア、ブラジル、インド等の各国料理、さらに寿司、うなぎ、ラーメン、蕎麦となんでもあり、飲み食いにはいっさい困らない。戦前、戦後の歴史とともに歩んできた多くの老舗は、再開発で街の景観が一変した今も、なお健在である。
 そうした新旧すべてを引っくるめて、〈神保町文化〉と呼ぶことに異論のある人はいない、とわたしは信じている。逢坂 剛」

     

<歴史と文化の散歩道「神田本屋街散歩」>

  


○町名由来板「神田神保町二丁目・一ツ橋二丁目」 千代田区神田神保町2-17

   

(説明板)
「千代田区町名由来板 神田神保町二丁目・一ツ橋二丁目 作家 紀田 順一郎
 神田神保町二丁目は、一丁目とともに世界に誇る古書店街として知られていますが、江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいました。町名の由来は、元禄(1688?1704)ごろ、現在のさくら通り(救世軍本部の横)のあたりに神保長治という旗本が広大な屋敷をかまえ、付近に神保小路という通称が生まれたことからです。一ツ橋はさらに古く、徳川家康が江戸入府のころ、日本橋川(現在の外堀)に架けられた橋の名称に由来するものです。
 明治五年(1872)の市区改正で、この地区は南・北神保町と呼ばれるようになりました。そのころはまだ人口の少ない場所でしたが、付近の一ツ橋地区に開成学校をはじめ、東京大学、東京英語学校などが連なる文教地区として発展したため、神保町一帯には多くの書店が軒を並べるようになりました。明治後期には隣接の町内を含めて数十軒の古書店が生まれ、大正の初期には周辺の学校は七十以上を数え、新刊書店や出版社も増加しました。昭和戦前にかけては、喫茶店や映画館も含む学生街として大いに繁昌したものです。
 第二次大戦中、神保町と一ツ橋地区はともにアメリカ軍の空襲を免れました。神保町は昭和二十二年(1947)に神田神保町と改められ、その後も、隣り合う一丁目や三崎町、小川町なども含む古書店街として発展を続けてきました。一ツ橋一帯は企業が集中し、昭和四十一年(1966)には竹橋や神保町など、地下鉄の各駅も誕生して交通至便となり、近年は海外から訪れる人も増えています。
 私は半世紀以上も前、高校生時代に初めて一ツ橋の共立講堂を訪れて以来、この地区全体の文化の香りに引かれ、とくに書物文化の奥深さに強く魅せられるようになりました。以後も週に一度ぐらいは必ず訪れていますが、その間にめずらしい本、貴重な資料を見つけた経験も数多く、古書店の主人から書物のことを教えられたこともあります。手に入れたばかりの本を近くの喫茶店で開くのを、いまでも最大の楽しみとしています。伝統ある二つの町のたたずまいは、東京の中心部にふさわしい品位を備えているようです。紀田 順一郎 一神町会」

    


○町名由来板「神田神保町三丁目」 千代田区神田神保町3-1

   

(説明板)
「千代田区町名由来板 神田神保町三丁目
 江戸時代、この界隈は、武家屋敷が軒を連ねていました。古文書や古絵図をひもとくと、石川摂津守、井上遠江守、丹波園部藩小出家の上屋敷といった名前が見てとれます。
 そんな武家のなかでも、朝廷や公家に関連する儀式などを担当した高家旗本の今川家は、ひときわ目を引く存在だったようです。屋敷前の通りは今川小路と呼ばれ、明治五年(1872)には、この小路の名前から、今川小路一丁目、同二丁目、同三丁目という町も生まれています。
 また、日本橋川に架かる「俎橋」は、江戸時代はじめのころから伝わる名前です。当初、まるで俎のような木の板を渡しただけの橋であったことから、この名前が付いたとされています。
 そんな俎橋周辺について、森鴎外の小説『雁』のなかにこんな一文があります。「今川小路の少し手前に御茶漬という看板を出した家がその頃あった。二十銭ばかりでお膳を据えて、香の物に茶まで出す。末造はこの家を知っているので、午を食べに寄ろうかと思ったが、それにはまだ少し早かった。そこを通り過ぎると、右へ廻って俎橋の手前の広い町に出る。」
 江戸時代には武家地だったこのあたりも、明治時代後半には活気あふれる商業地に生まれ変わり、いまの町の原型が形づくられていきました。
 昭和九年(1934)、今川小路一丁目、同二丁目、同三丁目の一部が合併して神保町三丁目となり、昭和二十二年(1947)、神田神保町三丁目となりました。 神保町三丁目町会」

    


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