Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 神田須田町

  ○ 町名由来板「神田須田町二丁目」
  ○ 町名由来板「神田須田町一丁目」
  ○ 華ごろも
  ○ 町名由来板「神田市場(神田須田町一丁目)」
  ○ 神田青果市場発祥之地

 神田淡路町

  ○ 町名由来板「淡路町一丁目」


○千代田区町名由来板「神田須田町二丁目」千代田区神田須田町2-9

 須田町二丁目交差点の東側、靖国通り歩道に、千代田区町名由来板「神田須田町二丁目」が設置されています。

    

(説明板)
「千代田区町名由来板 神田須田町二丁目
 現在の神田須田町二丁目が生まれたのは、昭和八年(1933)のことです。大正十二年(1923)の関東大震災の後、東京の町は再編されました。その一環として元柳原町、柳町、小柳町、平永町などの町が合併され、いまの町の区域が定められたのです。
 関東大震災から二十二年後の昭和二十年(1945)、第二次大戦下の空襲によって東京はふたたび焼け野原となってしまいます。とくに三月十日の東京大空襲では、東京の東半分がほぼ焼き尽くされました。そんな中にあって、須田町二丁目は町の人々が一致団結して防火にあたったため、町内の一角は戦火をまぬがれることができました。
 戦後、須田町二丁目周辺は、ラシャの切り売りなどを生業とする業者が集まり、一時は日本一といわれるほどの繁盛ぶりを示しました。その賑わいも、空襲から命をかけて町を守った人々の努力があったからこそ生み出せたのです。町を愛する住民の気持ちは、戦後も変わりませんでした。
 昔から祭り好きの人たちが多い土地柄ですが、この界隈には、神田神社・柳森神社・下谷神社の氏子が集まり住んでいます。いまでもこの須田町に住む人々は、三社の祭礼を五月にまとめてとりおこない、住民が一丸となって伝統ある神田の祭りを盛り上げています。  神田須田町二丁目町会」

    


○千代田区町名由来板「神田須田町一丁目」 千代田区神田須田町1-16

 須田町交差点の中仙道側歩道に、千代田区町名由来板「神田須田町一丁目」が設置されています。

   

(説明板)
「千代田区町名由来板 神田須田町一丁目
 江戸の町の整備が本格的に始まったのは慶長年間(1596〜1615)に入ってからのことです。それまで、須田村と呼ばれていた神田川周辺も、農村から町人の町に生まれ変わりました。しかし、昔からの地名は残されたようで、明暦三年(1657)の「新添江戸之図」には「すた町」と記されています。
 江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とだいたい同じ範囲を指していたようです。また、文政七年(1824)の「江戸買物独案内」を見ると、江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具や仏具を売る店など、さまざまな商品を扱う店があったことがわかります。現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗の商店が数多く営業しています。
 さらに明治以降、数多くの繊維関連の問屋が軒を連ねるようになりました。その理由について、専門家のなかには、神田川南岸の柳原土手(現在の和泉橋付近)で江戸期に開かれていた古着市の伝統を引き継いだためと考える人もいます。
 つまりこの周辺は、江戸期以来の“商いの町”としての伝統が、いまだに生き続けている土地なのです。  須田町一丁目南部町会」

    


華ごろも 田中昭 千代田区神田須田町1-16

 「千代田区町名由来板 神田須田町一丁目」の隣にある「華ごろも」(田中昭)の彫刻です。
 「千代田区神田中央通りカラー舗装化推進委員会」による平成4(1992)年4月の建設です。

   

(碑文抜粋)
 「千代田区神田中央通りカラー舗装化推進委員会
  この彫刻は地元住民の六年間に亘る
  献身的奉仕により『カラー舗装化』が
  完成した記念として建設したものである。
  平成四年四月吉日」

  


○千代田区町名由来板 神田市場(神田須田町一丁目) 千代田区神田須田町1-8

 「千代田区町名由来板 神田市場(神田須田町一丁目)」と、「神田青果市場発祥之地」碑があります。

    

(説明板)
「千代田区町名由来板 神田市場(神田須田町一丁目)
 中世の神田川右岸は、水田が多い農村地帯だったようです。幕府が編集した江戸の地誌である「御府内備考」には、町が整備される前、この周辺が須田村と呼ばれていたという記述があります。江戸初期の慶長年間(1596〜1615)にも、この界隈を中心に「神田青物市場」の起源とされる野菜市が開かれたこともわかっています。
 水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から荷揚げされた青物が、一万五千坪(約4万9500u)におよぶ広大なこの青物市場で商われていました。
 当時の市場では、店が店員(誤字修正)の住まいを兼ねていました。つまり、現在のわたしたちが考える市場と違い、当時は市場の中に町があるといったイメージでした。巨大な市場でしたので、中にある町も須田町だけでなく、多町、佐柄木町、通新石町、連雀町なども市場の一部をかたちづくっていたのです。そして、これら五町の表通りには、野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、連日のように威勢のいい商いが行われていたということです。青物市場の別名である「やっちゃ場」は、そんな威勢のいい競りのときのかけ声から生まれた言葉なのです。
 江戸、そして東京の食生活を支え続けたこの市場は、昭和三年(1928)には秋葉原西北に、平成二年(1990)には大田区へと移転しました。それでも、現在の須田町町内には、東京都の歴史的建造物に指定されるような老舗商店が数多く営業しています。須田町は、江戸からつづく活気あふれる商いの伝統が、いまだに息づく町なのです。
 現在の須田町中部町会は、この青果市場の中心であった連雀町と佐柄木町のそれぞれ一部が、関東大震災後の土地区画整理事業によって合併し、誕生しました。」

  


神田青果市場発祥之地 千代田区神田須田町1-8-4

 かつてここに「神田青果市場」がありました。
 「神田青果市場発祥之地」

   

(碑文)
「旧神田青果市場の由来
 この市場は慶長年間に今の須田町附近、当時は八辻ヶ原と称していたこの地一帯において発祥したものである。年を追って益々盛大となり徳川幕府の御用市場として駒込、千住と並び江戸三大市場の随一であった。ためにこの市場には他市場で見られない優秀なものが豊富に入荷した。そして上総房州方面の荷は舟で龍閑町河岸へ、葛西、砂村方面のものは今の柳原稲荷河岸から水揚げされた。当時の記録によるとこの市場の若い衆達が白装束に身を固めてかけ声も勇ましく御用の制札を上に青物満載の大八車を引いて徳川幕府賄所青物御所を指してかけて行く姿は実に「いなせ」なものがあったと云う。巷間江戸の華と云われた、いわゆる神田っ子なる勇肌と有名な神田祭はこの神田市場にそのことばの源を発しているものといわれた。こうして繁栄をきわめたこの市場は江戸時代から明治、大正、昭和へと漸次その地域を拡大してこの地を中心に多町二丁目、通り新石町、連雀町、佐柄木町、雉子町、須田町にわたる一帯のものとなりその坪数は数千坪に及んだ。この間大正十二年九月関東大震災にあって市場は全滅したが直ちに復興し東洋一の大市場とうたわれた。惜しい哉この由緒ある大市場も時代の変遷と共にこの地に止まることができず、昭和三年十二月一日を期して現市場である神田山本町東京都中央卸売市場神田分場へと移転した。当時数百軒に及んだ問屋組合頭取は西村吉兵衛氏であった。風雪幾百年永い発展への歴史を秘めて江戸以来の名物神田青果市場は地上から永遠にその姿を消した。父祖の代からこの愛する市場でいきて来たわれわれは神田市場がいつまでもなつかしい。あたかも生れ故郷のように、尽きない名残りをこの記念碑に打込んで旧市場の跡を偲ぶものとしたい。」
「記念碑建立者(略)
 昭和三十二年十一月
 撰文 書(略)」

   

「青物市場」(東京風景 小川一真出版部 明治44年 国立国会図書館蔵)

  


○千代田区町名由来板「淡路町一丁目」 千代田区神田淡路町1-1

    

(説明板)
「千代田区町名由来板 淡路町一丁目
 江戸時代のはじめ、この地には将軍家と関係が深い寺院がありました。
 「寛永江戸図」によると、観音坂を下りきったあたりに「西福寺」「西念寺」が記されています。西福寺は慶長三年(一五九八)、徳川家康が故郷の三河から呼び寄せた寺です。一説には、永禄三年(1560)の桶狭間の戦いの際、織田軍に包囲された家康を救ったのが同寺の了伝和尚で、家康はこの恩にむくいるため、新たな寺を寄進したともいわれています。
 寛永年間(一六二四年?一六四四)にこの二つの寺が移転したあと、ここは内藤伊賀守の屋敷となりました。そして貞享四年(一六八七)以降は、豊後府内藩主である大給松平家の上屋敷となり、幕末を迎えました。
 明治五年(一八七二)、この界隈は、神田淡路町一丁目と正式に名付けられました。この名前は、鈴木淡路守の屋敷があったことから名付けられたという「淡路坂」(現・神田淡路町二丁目)に由来しています。
 明治五年当時は、町内のほとんどが華族である大給近道の屋敷地だったと「東京府志料」に記されています。  淡路町一丁目町会」

   


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