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 神田小川町

  江戸時代、小川町は、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、元禄6(1693)年に小川町と改称されました。
  五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。
  小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。
  「小川の清水」は、内藤家の屋敷内にあったといわれています。
  太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。
  小川の畔に祀られていた「平川清水稲荷」が、現在は法恩寺に祀られています(こちらで記載)。

 「江戸切絵図」(抜粋)

   

 住居表示法では、番地は時計回りに番号が増えていきますが、神田小川町では当てはまりません。
 靖国通りをはさんで北に偶数、南に奇数の番地が交互に振られています。

  ○ 町名由来板「小川町一丁目(北部)」
  ○ 町名由来板「小川町一丁目(南部)」
  ○ 町名由来板「小川町二丁目(北部)」
  ○ 町名由来板「小川町二丁目(南部)」
  ○ 町名由来板「小川町三丁目(北部)」
  ○ 平和の鐘(前垂会)
  ○ 町名由来板「小川町三丁目(南部)」
  ○ 五十稲荷神社
  ○ 町名由来板「小川町三丁目(西部)



○千代田区町名由来板「小川町一丁目(北部)」 千代田区神田小川町1-6

    

(説明板)
「小川町一丁目(北部) 小川町一丁目北部町会
 江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。
 古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、元禄六年(1693)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。
 小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。
 安政三年(1856)の絵図にも見られるとおり、このあたりには山城淀藩稲葉家、豊後府内藩松平家、越前大野藩土井家の上屋敷がありました。
 明治五年(1872)、周辺の武家地を整理して、西側は小川町、東側は淡路町一丁目となり、明治十一年(1878)、神田区に所属します。この界隈は、鍛冶屋稲荷神社(現在は幸徳稲荷神社と改称し、小川町二丁目に遷座)のほか、西洋料理店やビリヤード場、学校、印刷所などが立ち並び、周辺の雉子町、美土代町、錦町、表神保町などとともに東京を代表する繁華街として栄えました。
 昭和八年(1933)、区画整理により、ここは小川町一丁目となります。昭和二十二年(1947)に神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町一丁目となりました。」

    


○千代田区町名由来板「小川町一丁目(南部)」 千代田区神田小川町1-1

    

(説明板)
「小川町一丁目(南部) 小川町一丁目南部町会
 江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。
 古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、元禄六年(1693)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。
 小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。
 安政三年(1856)の絵図にも見られるとおり、この界隈には旗本で寄合の近藤左京、同じく旗本で寄合の津田英次郎らの屋敷がありました。慶応三年(1867)のころには、武家地のほかに雉子町や四軒町といった町が見られ、職人の町として移り変わっていきました。
 明治五年(1872)、雉子町は周辺の武家地を編入し、西側の四軒町は美土代町四丁目となります。雉子町には、俳人正岡子規が勤めていた日本新聞社のほか、書店や印刷所、銭湯などがありました。美土代町四丁目には、新聞雑誌取次所や産婦診療院、踊指南所などがありました。
 大正十二年(1923)の関東大震災後、震災復興都市計画により、町の様子や町名も改変します。昭和八年(1933)、ここに小川町一丁目が誕生しました。さらに昭和二十二年(1947)、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町一丁目となりました。」

    


○千代田区町名由来板「小川町二丁目(北部)」 千代田区神田小川町2-4

    

(説明板)
「千代田区町名由来板 小川町二丁目(北部) 小川町北部二丁目町会
 江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。
 古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、元禄六年(1693)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。
 小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。
 安政三年(1856)の絵図にも見られるとおり、このあたりには山城淀藩稲葉家の上屋敷がありました。稲葉家の屋敷前を通る道は、およそ百五十年を経た現在も、この付近で大きく湾曲する靖国通りの道筋として受け継がれています。
 明治五年(1872)、周辺の武家地を整理して小川町となり、明治十一年(1878)、神田区に所属します。
 町内には東京物理学校、私立鳥海女学校、東京顕微鏡院など、学校や病院がありました。東京物理学校は現在の東京理科大学の前身で、夏目漱石の小説『坊っちゃん』の主人公が学んだ学校です。
 また、幸徳稲荷神社は、稲葉家の屋敷神として祀られていたもので、当時は鍛冶屋稲荷と称し、五穀豊穣と武運長久を祈願された由緒ある社です。
 昭和八年(1933)、区画整理により、ここは小川町二丁目となります。昭和二十二年(1947)に神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町二丁目となりました。」

    


○千代田区町名由来板「小川町二丁目(南部)」 千代田区神田小川町2-3

    

(説明板)
「千代田区町名由来板 小川町二丁目(南部) 小川町二丁目南部町会
 江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。
 古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、元禄六年(1693)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。
 小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。
 安政三年(1856)の絵図にも見られるとおり、この界隈には五千石の旗本で御小姓組番頭の蜷川相模守、二千石の旗本で御側衆の太田播磨守、同じく御側衆の平岡丹波守の屋敷がありました。
 明治五年(1872)、周辺の武家地を整理して東側は錦町一丁目、西側は錦町二丁目となり、明治十一年(1878)、神田区に所属します。明治時代の錦町一丁目には、簿記学速記学速成教授所のほか、牛肉店や洋品店、菓子店などがありました。また、二丁目には天神真揚流柔術教授所、矯正看護婦会などがあったようです。
 昭和八年(1933)、区画整理により、ここは小川町二丁目となります。昭和二十二年(1947)に神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町二丁目となりました。」

    


○千代田区町名由来板「小川町三丁目(北部)」 千代田区神田小川町3-6

   

(説明板)
「小川町三丁目(北部) 小川町北三町会
 江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。
 古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、元禄六年(1693)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。
 小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。
 安政三年(1856)には、この絵図にも見られる通り、常陸土浦藩土屋家の上屋敷がありました。土屋家の屋敷は、文久三年(1863)に御用地となり、跡地は幕府の歩兵屯所となりました。歩兵屯所は幕府の兵制改革にともない小川町のほか、西丸下、田安門外、大手前の四カ所に設置され、小川町には幕府歩兵第三番隊が入営していましたが、明治維新後に廃止され、跡地は町へと生まれ変わります。
 明治五年(1872)、周辺の武家地を整理して小川町となり、明治十一年(1878)、神田区に所属します。明治時代の町内には、牛肉鳥肉料理店や割烹料理店、小間物店、洋傘店などがありました。
 昭和八年(1933)、区画整理により、ここは小川町三丁目となります。昭和二十二年(1947)に神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町三丁目となりました。
 明治以降、この周辺には学校が多かったため駿河台や神保町などとともに学生街として栄えていましたが、昭和三十年代ごろから学生や若者の趣味を反映して大型のスポーツ用品店が数多く出店し、スポーツ店街としても賑わっています。」

    


平和の鐘(前垂会) 千代田区神田小川町3丁目

 靖国通りの神田小川町3丁目に、商店街である前垂の会(明治34年結成)の100周年を記念して、
 「平和の鐘」が五基設置されています。正午、15時、18時に鐘が鳴るそうです。

    

(プレート文)
 「まえだれ会
  「平和の鐘」
  施行 平成15年3月 No.1/5」

「「前垂会」のいわれ
 今から百年程度前の明治34年に、東京下町の神田に、町の発展を願って結成された商店主の集りがありました。それが東京で一番古い商店街といわれている「前垂会」です。
 名の由来は「前垂れを諦めて身を正し、商人の基本である頭をたれて、誠実・親切・謙虚をモットーに商売に励げもう」という心根を忘れないためにつけられました。
 時の流れを経たいま、「まえだれ会」の私達は昔の商人魂を忘れず、ますます一致団結して、これからも東京一歴史のある商店街として発展してゆきたいと思っています。ここに当会の一○○周年と江戸開府四○○年を記念し、世界の平和を祈りつつ「平和の鐘」を建立しました。」

   


○千代田区町名由来板「小川町三丁目(南部)」 千代田区神田小川町3-1

    

(説明板)
「千代田区町名由来板 小川町三丁目(南部) 小川町三丁目南部町会
 江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。
 古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、元禄六年(1693)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。
 小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。
 安政三年(1856)には、この絵図にも見られるとおり、下野足利藩戸田家、越後高田藩榊原家、信濃高遠藩内藤家の上屋敷がありました。小川町の由来ともなった「小川の清水」は、内藤家の屋敷内にあったといわれています。
 明治五年(1872)、この一帯は周囲の武家地を整理して表神保町となり、明治十一年(1878)、神田区に所属します。町内には、勧工場(百貨店の前身)で時計塔としても知られた南明館、大弓場や寄席などがあり、東京を代表する繁華街でした。
 昭和八年(1933)の区画整理により、ここは小川町三丁目となります。昭和二十二年(1947)に神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町三丁目になりました。
 この界隈は明治のころより学生街として賑わっていましたが、昭和三十年代からは大型のスポーツ用品店が出店しはじめ、現在では東京のみならず日本屈指のスポーツ店街として多くの人々を集めています。」

    


五十稲荷神社 千代田区神田小川町3-9-1

 慶長年間に伏見稲荷大社から分霊して祀られたのが発祥であり、その後敷地の持ち主となった戸田家の屋敷神として祀られます。
 明治25年戸田家転居以降は町内の守護神として祀られます。

    

「御由緒
 正式名称「英寿稲荷神社」
 江戸時代初期、京都伏見稲荷神社より分霊。安産のご利益があり、徳川家からも厚く信仰されておりました。その後、栃木足利戸田藩の江戸屋敷内に入り「五と十の日」に庶民にも参拝を許し、地元にならい織物市が開かれるように。明治時代には縁日として姿を変え戦後まで賑わいを見せました。五と十にちなんで当時より「五十稲荷神社」と親しまれています。
 令和3年4月、新しい御社殿・社務所兼自宅を竣工しました。」

  

<五十きつね>

  

<社殿>

  

<パンフレット>

 「イラスト&デザイン:なかだえり」

   


○千代田区町名由来板「小川町三丁目(西部)」 千代田区神田小川町3-10

    

(説明板)
「千代田区町名由来板 小川町三丁目(西部) 小川町三丁目西町会
 江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。
 古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、元禄六年(1693)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。
 小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。
 安政三年(1856)の絵図では、この界隈に寄合医師和田春孝、常陸土浦藩土屋家の上屋敷などが見られます。
 明治五年(1872)、周辺の武家地を整理し、富士見坂を境に北側は猿楽町一丁目、南側は小川町となり、明治十一年(1878)、神田区に所属します。ちなみに富士見坂の名は、坂の上から富士山が見えたことに由来します。
 明治時代の猿楽町一丁目には、英語、漢学、数学などを教える研精義塾、裁縫を教える裁縫正鵠女学校や婚姻媒介所などがありました。小川町には、西洋料理店やビリヤード場、小川町警察署などがあり、学生たちで賑わう街でした。また、町内に過ごした昭和期の小説家永井龍男は、文藝春秋社で雑誌編集長を務めたのち、後年には文化勲章を受章しています。
 昭和八年(1933)の区画整理により、ここは小川町三丁目となります。昭和二十二年(1947)に神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町三丁目となりました。」

   


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