Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 神田錦町

  ○ 町名由来板「神田錦町二丁目」
  ○ 電機学校発祥の地
  ○ 豊川稲荷神社
  ○ 町名由来板「神田錦町三丁目」
  ○ 護持院ケ原
  ○ 護持院原跡碑
  〇 不二ラテックス本社ビル


○町名由来板「神田錦町二丁目」 千代田区神田錦町2-2

   

(説明板)
「町名由来板 神田錦町二丁目
 江戸時代、この界隈は、武家屋敷が軒を連ねる地域でした。当時の武家地には町名がなく、かわりに「錦小路」という通称で呼ばれていました。もともとは「二色小路」という字を当てていたとされるこの呼び名は、近くに一色という名の旗本の家が二軒あったことに由来するといわれています。
 錦という名の由来については、この周辺を所有していた護持院に、錦のように美しい虫を祀った弁財天堂が建っていたためという説、住人が京都にある錦小路にあやかりたいと考え、錦と付けたという説もありますが、本当のところははっきりしていません。
 護持院は、享保二年(一七一七)の大火で跡形もなく焼け落ちてしまいました。江戸城外堀に隣接する地域で起こった火事に幕府関係者は驚き、護持院の跡地だけでなく、周辺の武家屋敷も召し上げて火除地(延焼防止の空き地)としました。この広大な火除地はのちに「護持院原」と呼ばれ、将軍の鷹狩などがおこなわれました。
 神田錦町二丁目という町名が正式に誕生したのは、明治五年(一八七二)のことです。明治十八年(一八八五)には、中央大学の前身である英吉利法律学校が開学しています。明治四十年(一九○七)に小川町で開学した電機学校(東京電機大学の前身)は、昭和になってこの町内に移ってきました。武家地だったこの界隈は、明治以降、教育機関が立ち並ぶ文教の町として発展を続けました。
 明治四十四年(一九一一)、町名から神田が外され錦町二丁目に変更されますが、昭和二十二年(一九四七)にはふたたび神田錦町二丁目となり、現在に至っています。 神田錦町二丁目町会」

     


電機学校発祥の地 千代田区神田錦町2-2-1

 令和2(2020)年にオープンした「神田スクエア」に、「電機学校発祥の地」と「東京電機大学」の石碑が並んでいます。

(碑文)
 「電機学校発祥の地
  1907年9月11日 電機学校この地に設立さる
  幾多の有為なる人材を世に送り その使命を今
  東京電機大学に託す」

  

(碑陰)
 「歴代東京電機大学電機学校長
  (旧名 電機学校)
  (以下略)」

  


豊川稲荷神社 千代田区神田錦町2-2-8

 神田スクエア敷地内に鎮座する豊川稲荷神社です。

   

    


○町名由来板「神田錦町三丁目(錦町三丁目町会)」 千代田区神田錦町3-3

   

(説明板)
「千代田区町名由来板 神田錦町三丁目
 江戸時代、この界隈は武家地で、「錦小路」と呼ばれていました。一色という名の旗本の家が二軒あったことから「二色小路」、そしていつのころからか「錦」の字に置きかわり「錦小路」となったわけです。そのほか、京都にある錦小路にあやかったとも、この地にあった護持院に、錦のように美しい虫を祀った弁財天堂があったためとも言い伝えられています。
 護持院は、もともと真言宗筑波山中禅寺知足院の別院として、紺屋町にあった寺でした。当時、住職をつとめていた隆光は、五代将軍徳川綱吉の絶大な信任をうけ、貞享年間(一六八四〜一六八八)に、現在の神田錦町から一ツ橋にかけての広大な地を与えられ、さらに元禄九年(一六九六)には、護持院という称号が贈られています。
 ところが享保二年(一七一七)、大火によって護持院は跡形もなく焼けてしまいます。江戸城のすぐ北で燃えさかった火事に、幕府関係者はよほど肝をひやしたのでしょう。護持院はここに再建することを許されず、大塚の護国寺(現・文京区)へと移されます。護持院と周辺の武家屋敷の跡地は火除地(延焼防止の空き地)とされ、「護持院原」と呼ばれるようになりました。当初、将軍の鷹狩などがおこなわれていましたが、その後、散策路として町人たちにも開放されました。
 神田錦町三丁目の町名が正式に生まれたのは、明治五年(一八七二)のことです。明治時代になると、この広い土地を利用して大学などの教育機関が立ち並ぶようになります。幕府の開成所の流れをくむ開成学校や東京外国語学校(のちの東京外国語大学)、学習院がこの地にありました。
 明治四十四年(一九一一)、いったん錦町三丁目と変わりますが、昭和二十二年(一九四七)にはふたたび神田錦町三丁目となり、現在に至っています。 錦町三丁目町会」

     


護持院ケ原

 五代将軍綱吉は、現在の神田錦町、一ツ橋一帯に広大な密教の大寺院「筑波山護持院元禄寺」を建立しました。
 護持院が享保2(1717)年正月の大火で焼失した跡地が「火除地」となり、護持院ケ原と呼ばれました。

「江戸名所図会 護持院原」

 広大な火除地が描かれています。

  

「絵本江戸土産 護持院原」(広重)

 挿絵には「護持院原 むかし元禄年中この地に護持院といへる大伽藍あり真言宗和州長谷の一派なりとぞ実に東国武双の大地なりしがその頃音羽町の北に徒されその跡なるが故にかく呼ぶとぞ」とあります。

  

「江戸切絵図」

 護持院原部分の抜粋です。広大な「御火除地」が見えます。

  


護持院原跡碑 千代田区神田錦町3-3 錦三会児童遊園

 錦三会児童遊園に「ごじんがはら跡」碑があります。

    

 「ごじいんがはら跡」

  

 「錦三会子供遊び場 昭和二十四年五月三日」
 「よい子 強い子 役立つ子」

    

 「よい子 強い子 役立つ子」
 「昭和三十一年江戸築城五百年を記念し建之」

    

 「安田のおじいちゃんの木(安田規工次氏)」

  

 「不詳」
  紋が刻まれているので、江戸城の石垣石の一部でしょうか?

  


不二ラテックス本社ビル 千代田区神田錦町3-19-1

 護持院原跡(三番明地)に立っている「不二ラテックス本社ビル」です。
 同社の製品がビルのオブジェとなっています。

  大手町緑道から          平川門交差点から        パレスサイドビル屋上から
    

  本社前から
    


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