Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 神田橋

  ○ 神田橋
  ○ 神田橋門跡
  ○ 物揚場跡
  ○ 町名由来板「内神田一丁目」
  ○ 太田圓三君像
  ○ 金鋼鎚起 豊展観守像(山下恒雄) 別頁

 雉子橋門跡


神田橋 神田錦町一丁目・内神田一丁目〜大手町一丁目

 現在の神田橋は、関東大震災で木橋が焼け落ち大正14(1925)年11月10日に架橋、千代田線開通に伴い昭和55(1980)年に改架されたものです。
 寛永6(1628)年に築かれた神田橋門の跡にあります。

     

   

<大炊殿橋>

 橋の西南に土井大炊頭の屋敷があったため、「大炊殿橋」とも呼ばれました。
 江戸名所図会の本文には、「神田橋 大手より神田への出口に架す御門あり昔此地に土井大炊候の第宅ありし故に大炊殿橋とも号したるとなり 此御門北外の町をすべて神田と号く」とあります。

  


神田橋門跡 千代田区神田錦町1-29

 神田橋門は、真岡藩主稲葉雅勝らによって、寛永6(1629)年に築かれました。
 神田橋門は江戸五口のひとつで、将軍が上野寛永寺や日光東照宮に参詣する際の御成道でした。

   

(説明板)
「神田橋御門跡
 ここは、芝崎口門・神田口門・大炊殿橋門とも呼ばれ、将軍が上野寛永寺に参詣に行くための御成道となるため、門の警備は厳重でした。門は、1629年(寛永6年)に下野真岡藩(現在の栃木県)藩主稲葉正勝によって構築されました。対岸の鎌倉河岸は江戸城築城の資材を荷揚げする河岸場だったので、この門の役割は重要でした。
 1873年(明治6年)に櫓門が撤去され、1884年(明治17年)に木橋が架け直されました。道路の拡張と市電の開通に伴い改修され、関東大震災で焼け落ちた後に新たに架橋されました。現在の橋は1980年(昭和55年)に改架されたもので、木橋風の意匠に、灯籠風の親柱、石造風の高欄を組み合わせています。」

   

「江戸切絵図」
 江戸切絵図から神田橋御門の北側と南側部分の抜粋です。

   

「神田橋見附」(江戸見附写真帖 大正5年 国立国会図書館蔵)

  


物揚場跡 千代田区内神田1-1-3

 内神田区民集会室前に「物揚場跡」碑と、三基の「物揚場標石」が設置されています。

<物揚場跡碑>

(碑文)
 「物揚場跡
  日本橋川水運の
  物揚場標石
  ここに出土す
  往時をしのぶよすが
  として後世に伝える 
  昭和五十八年三月 
   千代田區」

    

<物揚場標石>

 正面「物揚場」、右側面「境界標」

     


○町名由来板「内神田一丁目」 千代田区内神田1-1-3

 内神田区民集会室前に設置されている「千代田区町名由来板 内神田一丁目」です。

     

(説明板)
「千代田区町名由来板 内神田一丁目
 江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈には、荷揚げ場がありました。徳川家康は、江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲む御堀(現・日本橋川)はそのための建築資材などを運ぶ水路として活用されました。古い地図を見ると、神田橋付近に「かしふねあり」と記され、ここが水運の拠点だったことがわかります。
 神田橋は江戸城外郭門のひとつで、上野寛永寺や日光東照宮への御成道(将軍の参詣経路)となっていました。このような要所であったため、ここには明治のころまで建造物は何もありませんでした。明治初期の地図には交番と電話があるだけです。
 明治五年(1872)、いったん美土代町となりますが、空き地の状態は第二次世界大戦後まで続きました。そして昭和四十一年(1966)、内神田一丁目に編入されました。
 昭和五十八年(1983年)、神田橋土木詰所の敷地となっていたこの場所に、内神田住宅が完成すると九十世帯が住むようになり、平成五年(1993)、千代田区のもっとも新しい町会として、内神田住宅町会が誕生しました。さらに平成十六年(2004)、町会名は神田橋町会と変わりました。 神田橋町会」

     


太田圓三君像 千代田区神田錦町1-29

 神田橋の北詰東側に「太田圓三君像」があります。
 関東大震災直後に、内務省復興局長に抜擢された太田氏は、復興事業の途上で心身疲労のため自ら命を絶ちます。
 昭和6(1931)年、復興事業の完成に当り、その功績を讃え彫像が建立されます。
 当初は相生橋袂の中の島公園に建立されましたが、その後、昭和30(1955)年に現在の神田橋のたもとに移設されました。

  

「太田圓三君像」
 震災復興の華と称された清洲橋を背に、図面を手にする太田圓三像です。

  

(碑文)
「大正十二年関東大震災の直後、氏は選ばれて帝都復興院土木局長に任ぜられ、復興事業の根幹で然も極めて難事業であった區画整理、およびこれに基く土木工事の計画遂行に直面して、献身的努力をなすこと二年余、事業の基礎漸く成った大正十五年春、心身疲労の極事業の犠牲として、惜しくもその生命を絶ったのであります。
昭和六年復興事業の完成に當り、先輩知友相寄り、氏の功績を偲び記念としてこの彫像を、深川相生橋畔の中島公園に建立したのでありますが、太平洋戦争の災禍により損傷せられましたので、昭和三十年春それを修復の上、この地に移設したのであります。
 昭和三十年六月」

  


雉子橋門跡 千代田区一ツ橋2-1雉子橋北東橋詰

(説明板)
「雉子橋門跡
家康が朝鮮からの使節をもてなすための雉をこの附近の鳥小屋で飼育したことが橋名の由来です。
1629年(寛永6年)に江戸城外郭門の一つである雉子橋門が築造され、橋が架けられました。橋は1903年(明治36年)に鉄橋に改架されました。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災したため、1926年(大正15年)に新たに架けられたのが現在の橋です。 千代田区」

   

「江戸切絵図」
 雉子橋御門部分の抜粋です。

  

「雉子橋見附」(江戸見附写真帖 大正5年 国立国会図書館蔵)

  

<雉子橋> 千代田区九段南一丁目・一ツ橋一丁目〜一ツ橋二丁目

    

    

(参考)
 雉子橋から出土した石材が活用されています。

 ○雉子橋門石垣 千代田区一ツ橋1-2-2 住友商事竹橋ビル
  千代田区のHPによると、雉子橋門の改修された石垣で復元的に整備されているとあります。

    

 ○「江戸城の石垣」(メトロ市ヶ谷駅) こちらで記載
 ○「越前堀児童公園」(中央区新川)  こちらで記載
 ○「佃公園」(中央区佃)       こちらで記載


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