○ 佐竹稲荷神社
○ 佐竹藩江戸屋敷趾
○ 千代田区町名由来板「旭町」
佐竹稲荷神社は、寛永12(1635)年、出羽国久保田藩二代藩主佐竹義隆が、鬼門除けのため佐竹家上屋敷に勧請したことに始まります。
天和2(1682)年の「八百屋お七」の大火で、藩邸は下谷三味線堀に移りましたが(こちらで記載)、稲荷神社は旧地に再建されました。
関東大震災後の区画整理で当地へ遷座しました。
佐竹家の家紋「五本骨扇に月丸」を社紋としています。
<佐竹稲荷神社の記>
(碑文)
「佐竹稲荷神社の記
当佐竹稲荷神社は 此の地に江戸屋敷を構えた佐竹家(秋田二十万石)が藩邸の鬼門除けのため 寛永十二年(一六三五)邸内の一隅に稲荷の神を勧請 建立したのに始まり 其の後天和二年(一六八二)の大火により一面焼土となり藩邸は下谷に移ったが 稲荷神社は再建され 佐竹家の家紋『扇に日の丸』を社紋とし火伏の守護神として江戸市民の信仰を受けてきた
明治にいたり神社制度が確立されるや 無格社となり 其の祭祀は神田明神の神職が兼務し 其の維持は地元有志に委ねられた 時移り大正十二年の関東大震災に惜しくも灰燼に帰し 社有地は区画整理のため現在地に移され社殿の再建をみたが 昭和二十年の空襲により再び消失の厄にあった 戦後の混乱期をへて復興の曙光をみる 昭和二十六年に仮宮が造営され 昭和二十七年には宗教法人により登記され 昭和三十年地元有志の奉賛により 総檜一間社霊屋造りの本殿が竣工し今日に至った」
「旭町々会歴代役員名 佐竹神社復興奉賛者氏名
昭和三十年より昭和五十一年現在(以下略)」
<奉納秋田スギ>
昭和61(1986)年11月、五城目町森林組合による秋田杉と記念碑の奉納ですが、秋田スギはすでに無く、記念碑だけが建っています。
(碑文)
「奉納秋田スギ」
「秋田県五城目森林組合長加賀谷力司」
「五城目町は、佐竹藩政の藩是である「国の宝は山なり、然れども伐り尽くすときは用に立たず尽きざる以前に備えを立つべし。山の衰えは即ち国の衰えなり。」を理念に積極的に造林と保育活動を続けた結果、県内で良質秋田杉の生産拠点の地位の確立をみるに至った。ここに町の木である秋田スギをゆかりあるこの地に植栽奉納して永く神田のいやさかを願うものである。」
昭和36(1961)年5月にビル建設の際、地下3メートルあたりから「佐竹家」の金箔をほどこした鐙瓦ほか多数が出土しました。
当時ビルの建築主、故金杉寅雄氏がこの石碑を建立したものです。
出土品は、現在、千代田区日比谷図書文化館に保存されているようです。
(碑文)
「佐竹藩江戸屋敷趾
此の地は江戸時代秋田二十万石を領する佐竹家の江戸藩邸の趾である。(略)」
佐竹稲荷神社脇に、千代田区町名由来板「旭町」が設置されています。
(説明板)
「千代田区町名由来板 旭町
旭町は、寛永年間(1624〜1644)の江戸図によると、能楽師幸若太夫と、出羽秋田藩の藩主佐竹義宣の屋敷地でした。
その後、天和二年(1682)暮れの大火により、焼け野原となった佐竹藩邸は翌年、下谷三味線堀に移りました。跡地は、新開地とあわせて町人地となり、永富町二丁目?四丁目、新革屋町代地、元乗物町代地の一部となりました。明治二年(1869)、これらの地域は「旭町」と改名されました。
旭町は佐竹家の紋から付けられた名前であるということですが、佐竹の紋について調べてみると次のようなことが書かれています。文治五年(1189)、源頼朝は藤原泰衡を討伐するため奥州平泉へ向かいました。そのとき常陸国佐竹郷の武士だった佐竹秀義は、宇都宮で頼朝の軍に合流し御家人となりました。秀義の旗が自分と同じ無紋の白旗であるのを見とがめた頼朝は、識別のために満月が描かれた自身の扇を与えて、旗の上に付けさせました。それが佐竹家の「五本骨の扇に月」の紋の由来になったといわれています。
明治二年、このあたりが、慶長九年(1604)から七十数年にわたり、佐竹藩の江戸上屋敷だったという縁で、当時の役人が佐竹家の家紋から町名を考えたのですが、月を日輪と間違えて「旭」という町名が発想されたようです。
昭和四十一年(1966)に住居表示が実施されると、内神田二丁目と三丁目の一部となり、旭町の名前は地図から消えてしまいましたが、昔を語り継ぐように町会の名前として今でも存続しています。 旭町会」