Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 神田鎌倉町・鎌倉河岸

 神田橋から鎌倉橋周辺は江戸時代から鎌倉河岸と呼ばれています。
 相模国鎌倉の材木座(市場)の商人が移り住み、木材や石材等の荷揚げを取り仕切ったことがその由来です。
 この河岸には豊島屋という酒屋がありそこで販売されていた「白酒」は有名でした。
 鎌倉河岸に隣接する町は「鎌倉町」と名付けられました。

  ○ 江戸名所図会 豊島屋
  ○ 町名由来板「神田鎌倉町・鎌倉河岸」
  ○ 御宿稲荷神社
  ○ 出世不動尊
  ○ 浦安稲荷神社 別頁
  ○ 材木商遠藤家住宅 別頁
  ○ 鎌倉河岸(広重)
  ○ 鎌倉河岸跡
  ○ 鎌倉橋
  ○ 江戸城外堀の石垣と荷揚げ場跡
  ○ 大手町川端緑道


江戸名所図会 鎌倉町豊島屋酒店 白酒を商ふ図」

 挿絵には「例年二月の末鎌倉町豊島屋の酒店に於て雛祭の白酒を商ふ 是を求んとて遠近の輩黎明より肆前に市をなして賑へり」とあります。
 豊島屋初代の十右衛門は、夢枕に立ったおひな様から白酒の作り方を伝授され、
 ひな祭用に販売したところ江戸中で大評判、江戸の名物となりました。徳川将軍も飲んだといいます。
 「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」と一世を風靡しました。ひな祭りに白酒を飲む風習は豊島屋から全国に広がりました。
 挿絵を見ると、夜明けから人々が列をなして白酒を買いに来ています。半日で白酒を1,400樽売ったと言われています。
 「酒醤油相休申候」とあり、酒と醤油の販売を休み、白酒のみを販売しています。
 櫓の上では鳶が店先の客を整理しています。

  

「絵本江戸土産 鎌倉河岸」(広重)

 挿絵には「鎌倉河岸 神田橋と常盤橋の間 御堀ばたをいふ 常に繁華なることいふに及ばず 就中二月中旬の頃 豊島やにて白酒を鬻ぐのときは さすがの廣場 人の山をなす 是また江戸の名物なるべし」とあります。

  

「狂歌江都名所図会 豊島屋」(広重)

 豊島屋の商標「カネジュウ」が見え、豊島屋が描かれています。

  

 豊島屋は今も白酒を販売しています。
 ・豊島屋本店 千代田区猿楽町1-5-1
 ・豊島屋酒店 千代田区神田錦町2-2-1KANDA SQUARE1階

  

○豊島屋本店 千代田区神田猿楽町1-5-1 03-3293-9111 HP

 豊島屋は、慶長元(1596)年に豊島屋十右衛門が、神田鎌倉河岸で酒屋兼居酒屋を始めたのが起源です。
 現在は神田猿楽町に本社を構えており、今年で創業428年を迎えています。
 豊島屋の白酒は江戸中にに有名で、お雛祭の前は白酒のみを販売し、江戸名所図会に描かれています。

     

    


○千代田区町名由来板「神田鎌倉町・鎌倉河岸」 千代田区内神田2-1

 千代田区立スポーツセンター前の歩道に「千代田区町名由来板 神田鎌倉町・鎌倉河岸」が設置されています。

   

(説明板)
「千代田区町名由来板 神田鎌倉町・鎌倉河岸
 天正十八年(1590)、豊臣秀吉の命により徳川家康は関東二百四十万石の領主として江戸城に入りました。当時の城は、室町時代の武将太田道灌が築いた城塞を、後北条氏が整備しただけの粗末なものでした。慶長八年(1603)、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍になった家康は、江戸に幕府を開き、町の整備とあわせて以後三代にわたる城の普請に乗り出します。
 家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたといいます。明暦三年(1657)の「新添江戸之図」には、すでに「かまくら丁」の名が記載されています。
 江戸城築城に際して、家康が近江から連れてきた甲良家も、町内に住まいがあったと伝えられています。甲良家は、作事方の大棟梁として腕をふるい、江戸城をはじめ、増上寺、日光東照宮などの幕府関連施設の建設に力を尽くしました。
 また、町内には、古くからさまざまな逸話を残す寺社があります。尾嶋公園のそばにある「御宿稲荷神社」もそのひとつです。家康が関東の新領国を視察した際に、先発隊として来ていた家臣の家に宿をとりました。のちにその庭の祠が御宿稲荷として信仰されるようになり、幕府より家康の足跡を記念して社地を寄進されました。
 昔、潮入りの葦原だったこのあたりで、漁業を営む人々が篤い信仰を寄せていた「浦安稲荷神社」も、かつてはこの町にありました。この祠は、天保十四年(1843)に遷座され、現在は神田明神の境内にあります。
 「出世不動尊」は、一橋徳川家の表鬼門除けとして祀られていたといわれています。本尊は、平安時代の僧智証大師の作と伝えられています。不動尊前の「出世不動通り」は、当時毎月二十七日に縁日が開かれ、たいへんな盛況だったようです。  内神田鎌倉町会」

   


御宿稲荷神社 千代田区内神田1-6-8

 御宿稲荷神社は、徳川家康が関東に移封された時に宿をとった邸宅に祀られていた祠を、
 家康の足跡の記念として「御宿稲荷神社」と称して社地を与えたのが始まりと伝えられています。
 現在の社殿は平成19(2007)年の新築です。
 この地域は、家康の江戸入城の際に三河から移住してきた武士が定住して繁栄し、三河町と呼ばれました。
 「三河町」は昭和10(1935)年に1丁目が鎌倉町と、2〜4丁目が神田司町と合併したことにより町名は消失しました。

     

     

<社号標>

  

<御宿稲荷神社縁起>

(碑文)
「御宿稲荷神社縁起
神田區三河町壱丁目鎮座御宿稲荷神社ハ天正ノ昔徳川家康公関東移封ノ際武蔵國神田村ノ郷士ノ家ニ授宿セラル其庭中ニ宇迦能御魂ノ神祠アリ後幕府ヨリ公ノ足跡ヲ止メラレシ紀念トシテ社地ノ寄進有ケレバ茲ラ廣ク世ニ御宿稲荷ノ大神ト崇メ奉レリ尚徳川氏江戸城ニ入城セラレテノチ此地ニ三河國ヨリ臣下ノ永住スメル者年ト共ニ増加シ遂ニ三河町ト稱スルニ至レリ大神ニハ爾来衆庶ノ崇敬歳月ニ加ワリ神徳灼トシテ輝キ又今回崇敬ノ人々相議リ時代ノ推移ト共ニ事跡ノ散逸センコトヲ考慮シ神殿ノ改修ト共に其縁起ヲト乞ワルル儘ニ謹ミテ一言記シ奉リヌ
  昭和八年五月十五日 社掌高橋國憲 霞峯吉田彦書」

   


出世不動尊 千代田区内神田2-6-9

 出世不動通りにある「出世不動尊」です。

      

(説明板)
「出世不動尊の由来書
 出世不動尊は、智証大師の御作にして、東潮院不動尊と申しあげ、江戸城内一ツ橋徳川水戸家の表鬼門除けとして祭祀せられましたが、明治以後は神田松下町の有志によって守護せられ、第二次世界大戦後は神田鎌倉町の要請を受け、出世不動通りが中心となってご守護いたすことになりました。
 都内でも屈指の由緒ある不動尊として知られ、一般庶民の信仰厚く、其の霊験は誠にあらたかで父子数代に及ぶ篤信家有り、二十七日のお縁日、歳末の羽子板市など往時の盛況は都内でも有名で古老の語り草となって居ります。
 今次大戦までは、院内に川越喜多院(天海僧正開基)より野川良源師が来院居住され、供奉に専念教化されて居られました。
 昭和二十年二月の戦災により本堂は焼失いたしましたが、御本尊様は、野川氏が身を持って之れを御守護いたし、生国九州天草に難を逃れて、幸い事無きを得ました。
 爾来、川越喜多院と関係の深い上野寛永寺水上大僧正を煩わし、節分豆撒式、毎月二十七日のお縁日に信徒各位のお冥福、家内安全、商売繁盛の祈願を行っております。
 現在の御本堂は昭和六十三年七月に完成致し、落慶法要を機に「出世不動尊奉賛会」を結成し、お守りいたしております。合掌
  平成六年七月  出世不動尊奉賛会」

  


○ 浦安稲荷神社 →こちらで記載
○ 材木商遠藤家住宅 →こちらで記載


鎌倉河岸 千代田区内神田1-1-14

 鎌倉橋交差点の工事現場の壁に「鎌倉河岸」(絵本江戸土産 広重)が掲示されています。

     

(説明文)
「鎌倉河岸
 かつて江戸のまちづくりに用いられた木材や石材が荷揚げされた場所
 徳川家康が指揮した江戸のまちづくりにあたり、全国から木材や石材等が運ばれました。相模国鎌倉の材木座(市場)の商人が移り住み、荷揚げ資材を取り仕切ったことから、本開発地区は「鎌倉河岸」と呼ばれています。かつてこの地には、市場の起源となる野菜売りや魚売りが立ち並び、多くの人で賑わっていました。」

  


鎌倉河岸跡 千代田区内神田1-1-14

 鎌倉橋北詰に、説明板「鎌倉河岸跡」が設置されています。

(説明板)
「神田橋から鎌倉橋周辺は江戸時代から鎌倉河岸と呼ばれています。徳川家康が江戸に入府した際、鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市付近)から石材を運び込み、この河岸に陸揚げしたのが名前の由来です。この河岸は魚や青物などの生鮮食品をはじめ、木材や石材などの物資が集まるところで、水上交通のターミナルとして賑わいました。また隣接する町は「鎌倉町」と名付けられました。1657年(明暦3年)の絵図にはすでにその名前が書かれています。
 江戸時代、この河岸には豊島屋という酒屋がありそこで販売されていた「白酒」は有名でした。」

   


鎌倉橋 千代田区大手町一・二丁目〜内神田一・二丁目

 関東大震災の復興橋の一つで、昭和4(1929)年4月25日の架橋です。

     

「まちの記憶」 千代田区内神田2-1-21

 鎌倉橋は戦時中に米軍の機銃掃射を受け、橋の欄干にはその跡が残っています。

(掲示」
「まちの記憶
 1944年 昭和十九年
 日本本土市街地への空襲が始まる
 鎌倉橋欄干には、1944年11月の米軍による爆撃と機銃掃射の際に受けた銃弾の跡が大小30個ほどあり、戦争の恐ろしさを今に伝えている。」

    


○江戸城外堀の石垣と荷揚げ場跡 千代田区大手町2-3

 鎌倉河岸の対岸(大手町)に「荷揚げ場跡」が残されています。

     

(説明板)
「江戸城外堀の石垣と荷揚げ場跡
 横を流れる日本橋川は、かつて外堀川と呼ばれ江戸城外郭に位置していました。そのため、現在も旧外堀石垣の一部が残され、この沿道にも一部石垣が残されています。また、橋のたもとには荷揚げ場として使われた痕跡が残っています。対岸にある鎌倉河岸は、江戸城築城資材などの荷揚げ場で、そのほか魚や青物のような生鮮食品をはじめ材木などの物資も集まり、近隣には青物市場など町人地が広がっていました。宮本公園に移築された、昭和2年(1927)頃建築の「遠藤家住宅」(千代田区指定文化財)は、江戸期以来鎌倉河岸で材木商を営んだ商家の建物です。」

    


大手町川端緑道 千代田区大手町一丁目・二丁目

 大手町川端緑道は、平成26(2014)年4月22日、日本橋川に沿って錦橋からJR橋まで歩行者専用道路として整備されました。

 現地地図より抜粋
  

 「大手町川端緑道完成記念
   平成26年4月
  千代田区・UR都市機構」

   

「大手町川端緑道
 大手町川端緑道は、大手町連鎖型都市再生プロジェクトとして独立行政法人都市再生機構が施工している大手町土地区画整理事業により日本橋川沿いに整備された歩行者専用道(延長780m、幅員約12m)です。
 大手町は、江戸時代以降日本の行政・文化の中心地として、東京の歴史的な記憶を内包しながら発展した場所です。大手町川端緑道での今後の様々な活動が絵巻物のように物語として展開されるという意味を込めて「日本橋川環境絵巻」というコンセプトのもとにデザインしました。
  平成二十六年四月 千代田区・UR都市機構」

  

「大手町川端量堂案内図」

  

<解説パネル>

 鎌倉橋南詰に設置されています。

  

「水辺空間の変遷
 この緑道(大手町川端緑道)は、日本橋川に沿って錦橋からJR橋まで約800m続く歩行者専用道路です。大手町地区再開発に伴い、新たな川べりの空間として整備されましたが、地区の骨格は江戸時代につくられた外堀に始まります。その後、明治、大正、昭和、平成と土地の記憶を重ねながら現在にいたります。
 徳川家康が天正18年(1590)に当時湿地の多かった江戸へ入ると、自然を活かしながら城下町として改造し、水路を整備し水運を整えました。安価で大量の物資が運べる水上交通は当時の交通網の主役で、米をはじめ、様々な物資が運搬されていました。近世の人々は、経済、生活のあらゆる面で水に結び付いた暮らしをしており、江戸は水運の発達した「水の都」となっていきます。
 明治維新をむかえ近代に入ると、道路の整備、鉄道の敷設など陸上交通が発達し、反比例して水上交通は衰え、水辺空間の重要性も忘れられていきました。大きな転換期は高度経済成長期の東京オリンピックの開催前後に行われた都市の改造でした。道路の用地には河川運河など公用地が利用されたため、水路は埋め立てられ、高速道路の下に隠れてしまいました。近世以来馴染んできた景観は消えていきました。」

  

「江戸水の都
 江戸城築城にともないこの地は武家地となり、老中や親藩、譜代の大名の屋敷がおかれました。横を流れる川は城下町整備で平川の河口がつけかえられ外堀となり、日本橋川と呼ばれるようになりました。幕末時の地図によると、錦橋から神田橋の間あたりは御三卿一橋家、神田橋から小紋広場を通って鎌倉橋あたりは徳川四天王のひとつ、譜代大名の出羽鶴岡藩酒井家、鎌倉橋からJR橋は徳川御家門筆頭の大名家の越前福井藩松平家上屋敷であったことがわかります。外堀を境に神田側は細かく地割され、江戸城の石材が荷揚げされていた鎌倉中河岸があり町人地の中心としての様子がみられます。
 江戸のまちは陰場道によってつくられていました。陰陽道では鬼門(北東)の方向から入り込んだ自然のエネルギー(気)が南西へ流れていくとされていて、その気に悪いものが流れこむと気が乱れ、その地に疾病や天災などの災いをもたらすと考えられていました。そこで、江戸城から北東にあたる位置に寛永寺(上野)を建て、気を浄化させ、南西に流れていく通り道に上記のような徳川家とつながりのつよい大名などを配置しました。ちょうどこのあたりは北東から流れてきた気をさらに浄化する役目をにない、続く大名小路へ流していく場所だったと考えられます。気の出口にあたる桜田門外から南西方向のエリアには外様大名がおかれ、悪い気が入らないようにしました。
 現在この緑道で日本橋川へかかる橋は錦橋、神田橋、鎌倉橋、JR橋と4つですが、当時は神田橋のみでした。神田橋は将軍の御成門であり、大番所として桝形の見附がある神田門から延びていました。対岸に江戸城築城の資材を荷揚げする河岸場があったので、 当時重要な役割を果たしていました。この緑道のある大手町の由来は江戸城大手門の東側にあたり、江戸時代は「大手前」と呼ばれていたことからきています。」

  

「江戸の経済と水運
近世は農民による米の生産と、商人による米の流通を中心に社会が成り立っていました。江戸は隅田川を介して関東の水系を網羅する利根川に通じており、それを取り込む水運を整備したので、物資は水上交通によって運搬されました。幕府の中央都市だけでなく関東経済圏の中心地としても発展しました。

 河岸の賑わい
幕府は江戸の町に、自然の川の付け替え、新たな運河の掘削など改造を施し、計画的な水路のネットワークを形成しました。(?河岸とは川の沿岸のこと。物資の運搬、輸送のための水路の際に作られた施設。さらには、そのような施設を利用する流通機構=廻船問屋の組織を意味する場合もあります。)

 水辺の信仰
日本では古来水辺の空間は、神や霊の世界との接点であると考えられてきたため、神社や寺院などが多数設けられ、神聖な宗教空間を形成してきました。これらを中心に水辺に名所が生まれ、盛り場としても発展しました。浅草の「三社祭り」などは水辺の信仰として当時は舟祭りだったことが「東都蔵時記」に描かれています。

 江戸の上水
江戸は人口増加にともない上水を整備しました。(低地の埋立地では井戸を掘っても塩分を含んだ水でした。)神田上水、玉川上水、?有上水、青山上水、三田上水、千川上水の6上水が作られましたが、後に神田、玉川以外は廃止されました。その後、技術も発達し岩盤も打ち抜く「堀抜き井戸」が普及しました。

 遊興空間
江戸の四季折々の遊びは水辺の空間とも密接に係わっていました。代表的なものは花見、川開きの花火、潮干狩り、月見などがあります。また江戸の文化形成に重要な役割をはたした芝居と遊郭も水辺の空間と結び付きながら成立しました。それらに遊びにいく人々が使った端爽とした猪牙舟は江戸を象徴した乗り物でした。」

   

「明治から平成の東京
 明治維新をへて新政府がかかげた「富国強兵」の実現のため、宮城(きゅうじょう 現:皇居)を中心とした都心部に大兵力と官庁機能が結集されました。このあたりの藩邸は面積が広く勤蕃侍の長屋などの設備があったため、兵営や練兵場として利用しやすく、官庁に旧大名藩邸をそのまま転用することができました。大手町1丁目にあたる御三卿一橋家跡地は陸軍や近衛騎兵大隊の用地となり出羽鶴岡藩酒井家、越前福井藩松平家上屋敷など、大手町2丁目にあたる地区は、大蔵省や文部省などの用地や御雇外国人居留地などとなり、後に印刷局、東京電話交換局などがおかれました。すべてが変化していく中、交通の主役も水上から陸上へ少しずつおきかえられていきました。乗り物では人力車にはじまり、乗合馬車、馬車鉄道、明治後期になると電車、タクシー、バス、鉄道と現れました。
 大正時代に入ると、陸上交通機関はさらに発達していきます。丸の内のビジネス街としての地位を決定づける中央停車場駅(東京駅)が大正3年(1914)にでき、それまで市内電車だけのこの地区を変えました。大正8年(1919)には中央線東京‐万世橋間の延線開業にあわせて日本橋川に鉄道橋がかけられ、新しい橋が生まれました。しかし、その4年後大正12年(1923)の関東大震災で、外堀の石垣や江戸時代からかけられていた神田橋が倒壊します。その後震災復興橋として、神田橋の再建(大正14年)だけでなく、新たに錦橋(昭和2年)鎌倉橋(昭和4年)が作られました。(?現在の神田橋は昭和55年地下鉄千代田線の工事にともない架け替えられたものです。)
 昭和に入り、第二次世界大戦を経験し、高度成長期を迎えていきます。東京オリンピック開催前後には都市の改造が行われて、首都高速道路が建設されました。ここ日本橋川を通る首都高4号線は昭和39年(1964)に神田‐初台間をつなげ、東京の交通事情と景観を一変しただけでなく、江戸からの空間としての位置づけも大きく変えていきました。」

  

「神田錦町での大学の始まり
歩道の対岸にあたる一橋門外の神田錦町にて、のちの東京大学である開成学校が始まりました。前身は幕末の国際情勢の激変に応じて開設された幕府の教育機関である蕃書調書でした。
明治6年(1873)から明治17年(1884)までの短い期間でしたが、武家屋敷を学校町へ一変させるだけの効果がありました。

 明治以降の東京の交通事情
西洋文化が一気に押し寄せ、移動手段も様変わりしました。明治5年(1872)9月に新橋‐横浜に日本初の鉄道が走りましたが、中央停車場)東京駅9は大正3年(1914)に完成しました。
お茶ノ水止りだった中央線が大正8年(1919)に東京駅まで延線し、現在の鉄道橋の原型が日本橋川にかかりました。関東大震災でもこの橋は残りました。

 橋の変化
神田橋は江戸時代に将軍が上野の寛永寺へ参拝するときに利用していた見附橋です。明治17年(1884)に木橋に改架、大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。震災後、復興事業で鋼製の桁橋になりました。(その時、錦橋、鎌倉橋も架けられました。)現在の橋は昭和55年(1980)下を走る地下鉄千代田線の工事に伴って架け替えられたものです。

 陸路の発達
日本橋川にかかる首都高速4号線(神田‐初台9.8km)は昭和39年(1964)8月に建設されました。当時の東京は自動車が急増、各地で渋滞が頓発、放置すればやがて交通麻痺に陥ると予測され、問題を解決するために建設されました。同年10月に東海道新幹線が東京‐大阪間で開通しました。その区間をひかりが4時間でつなぎ時間距離を一挙に縮め、ビジネスや旅行の概念を一変させました。

 丸の内地区再開発
1990年代後半から丸の内地区の魅力を高めようと再開発が始まりました。ビジネスに特化した街から商業や文化の発信拠点などの「多様性のある街」への転換を目指しました。平成14年(2002)8月に完成した丸の内ビルディングをかわきりに街が大きく変わり、華やかなショッピング通りになった丸の内仲通りは、 この大手町歩道ともイベント広場でつながっています。」
  
   

<親水広場> 千代田区大手町1-3

 錦橋から神田橋の間にある「親水広場」です。

    

 錦橋 神田錦町三丁目〜大手町一丁目
     

<気象庁旧生物季節観測の木々>

   

<人道橋の架橋>

 大手町川端緑道から対岸の内神田一丁目への人道橋架橋工事が進められています。

  

<神田橋>

  


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