神田金物通りの南側が「鍛冶町一丁目」、北側が「鍛冶町二丁目」です。
○ 町名由来板「鍛冶町一丁目」
○ 町名由来板「鍛冶町二丁目」
「神田金物通り」に、「千代田区町名由来板 鍛冶町一丁目」が設置されています。
(説明板)
「千代田区町名由来板 鍛冶町一丁目
江戸時代初期の慶長八年(1603)、幕府は江戸の町割(区画整理)を実施しました。このとき、新たに誕生した町の一つが鍛冶町です。新しい町名は、すぐに江戸っ子の間でも定着したようで、明暦三年(1657)の『新添江戸之図』や『寛文新板江戸絵図』でも「かち町」、あるいは「かぢ丁」という町名が見受けられます。
ちなみに「鍛冶」という名は、町が生まれた当初、江戸幕府お抱えの鍛冶方棟梁だった高井伊織が、この地を幕府より拝領して屋敷を構えたことに由来するとされます。高井家は、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の「関八州」の鍛冶頭を務め、その配下にある数多くの鍛冶職人たちもこの地に集まり、住むようになりました。
江戸時代に刊行され、大名や旗本の氏名・系図・家紋・御用達町人の氏名などが記された『武鑑』には、町内の住人として、文化年間(1804〜1818)だけでも、高井家をはじめ、金属加工を生業とする職人頭の名前が多く記録されています。
ほかにも、鍛冶に関連した仕事をする御用職人が多かったようで、文政七年(1824)の『江戸買物独案内』には、刃物やくぎなどを扱う卸売業者がいたことも記されています。
鍛冶町は、江戸時代の武士や庶民にとって必要不可欠な金属製品を提供し、日常生活を支え続けた町だったのです。 鍛冶町一丁目町会」
(説明板)
「その名が示すとおり、江戸時代や明治時代、この界隈には金物を扱う流通業者や小売業者が集まっていました。
鍛冶町の名前のはじまりは江戸時代にさかのぼります。この近辺に幕府御用を勤める鍛冶方棟梁だった高井伊織が屋敷を拝領し、鍛冶職人などが数多く集まっていたのです。
この二丁目界隈は、金物のなかでも、とくに刀や薙刀といった打物を扱う業者が多かったのが特徴だったようです。
そのほか、鍛冶町二丁目には鍛冶職人の屋敷だけでなく、江戸後期にはじつにバラエティ豊かな店がそろっていました。文政七年(1824)の『江戸買物独案内』には、下駄の鼻緒を扱う問屋や、書物問屋、さらには薬の小売業者までいたことが記されています。『江戸名所図会』からは、下駄の製作・販売にたずさわる職人や業者が集まっていた「下駄新道」と呼ばれる裏通りがあったこともわかります。
戦後、日本の復興期には、家庭金物店、建築金物店、銅・真鍮・鉄販売店などが軒を並べ、神田駅南口から東神田までの大通りは「神田金物通り」としてにぎわっていました。
昭和二十二年の区画整理で、黒門町、上白壁町、下白壁町、紺屋町、松田町、鍋町、塗師町、新石町、竪大工町、鍛冶町二丁目が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。さらに、昭和四十九年(1974)に住居表示が施行されると、神田の文字がはぶかれ「鍛冶町二丁目」と名前を変えて現在に至っています。 鍛冶町二丁目町会」