○ 浮世絵に見る洲崎弁天
○ 品川汐干
○ 利田神社(旧洲崎弁天)
○ 鯨塚
○ 品川浦公園
○ 利田新地
○ 品川浦と船だまり
「江戸名所図会 洲崎弁天」
挿絵には、橋の袂に鯨塚も描かれています。
「江戸切絵図」
江戸切絵図には「池」「弁才天」とあります。
「絵本江戸土産 品川 冽嵜辨天の祠 芝浦眺望」
挿絵には「深川にも同名あり 思ふにここには元地なるべし 元来海の出洲なれば 風景はいふに及ばず この後ろは妓楼の正面或ひいは綾羅の袂をかざし 糸竹の音の賑はしきも 岸によせくるささら浪の音に和して いと興あり」とあります。
「名所江戸百景 品川すさき」(広重)
目黒川に架かる「鳥見橋」とその先に洲崎弁天社が見えます。
「土蔵相模屋」が左下に描かれていlます。
品川沖には品川台場が見えます。
汐干狩りは三月の年中行事として、芝浦、高輪、品川、佃島、深川州崎、中川などが名所でした。
なかでも品川と洲崎は、潮干狩りの名所として、多くの人々で賑わいました。(深川洲崎はこちらで記載)
「江戸名所図会 品川汐干」
江戸名所図会にも描かれている「品川汐干」です。
「絵本江戸土産 品川汐干狩」(二代広重)
挿絵には「毎年三月朔日より三日の間を第一として 美女も裳裾をひるかへし 貝を拾ふを戯れとす」とあります。
「江戸名所 品川沖汐干狩之図」(二代広重 嘉永5(1852)年)
多くの人々が汐干を楽しんでいます。
鮃を素手で採っています。船頭でしょうか一升瓶を持って酒を飲んでいます。干潟を行く出前も見えます。
「東京名所 品川の汐干」(三代広重 明治10年頃 足立区立郷土資料館蔵)
明治時代にも続く潮干狩りです。
道具を使わず素手で採っているのが一般的ですが、この絵では熊手を持っています。
鮃を素手で採っていたり、干潟を行く出前も見え、二代広重の構図に似ています。
「江戸風俗十二ケ月の内 三月 潮干狩の図」(楊洲周延 明治23(1890)年)
江戸時代もそうですが、道具を使わず素手で採っています。
タイトルに場所の記載はありませんが、沖合に品川台場が見えるので、品川の潮干狩かと思います。
カゴの中にはたくさんの大きな貝が見えます。
当時は、道具を使わずとも、大きな貝が簡単にザコザコ採れたのでしょうね。
「品川汐干」(仁山智水帖 明治35年)
「親にらむ平目を踏んで汐干かな 其角」が添えられています。
親をにらむとそのばちでヒラメみたいな目になってしまう、親は敬えということが言われていたことを踏まえた句です。
干潟の砂に潜って隠れているヒラメを歩いて踏んで見つけ捕えることができました。
「汐干狩」(東京風景 明治44年)
芝浦海岸の汐干狩です。
正岡子規の句が添えられています。
「汽車に乗りて汐干の濱を通りけり 子規」
利田神社は、寛永3(1626)年に、東海寺の沢庵和尚が弁財天を勧請したのが始まりとされます。
目黒川の海に突き出た砂洲に祀られており、「洲崎弁天」と呼ばれていました。
明治の神仏分離で、御祭神を変更し、「利田神社(かがた)」と称するようになりました。
境内には寛政10(1798)年5月に品川沖に迷い込んだ鯨の供養碑があります。
<品川百景>
「区政40周年・区民憲章制定5周年記念
しながわ百景
利田神社と鯨塚
昭和62年 品川区 23」
<利田神社参道/鳥居>
埋め立てられた旧目黒川から、利田神社の横を見たところです。
鳥居には神額「利田神社」が掲げられています。鳥居の先に一対の石燈籠があります。
<境内>
門柱には「魚がし」とあります。手水舎に手水鉢。
<狛犬>
<天水桶>
石造の天水桶に、神紋「波に三つ鱗」が刻まれています。
<お役御免の石造物>
社殿前左手には、神額「利田神社」や、延享元(1744)年銘の標柱「奉獻 石燈籠一基」等が転がっています。
<社殿>
賽銭箱に、神紋「波に三つ鱗」です。
社殿には、見事な龍の彫刻が施されています。
提灯には「福壽辨財天社」とあります。
社殿と本殿は一体となっているようです。
神紋「波に三つ鱗」がずらりと並んでいます。
<金槌稲荷神社>
境内社「金槌稲荷神社」です。リアルな石造狐がいます。
左から「品川浦の生活と鯨の解説板」(町会)、新しい「鯨塚」、昭和四十四年の「鯨塚乃由来」、
「鯨塚」(江戸名所図会に描かれています)、説明板「鯨塚」(品川区教育委員会)とあります。
<鯨塚>
「寛政の鯨」の骨を埋め供養した「鯨塚」です。
捕獲されたクジラの体長は九間一尺(約16.5メートル)、高さ六尺八寸(約2メートル)で、
セミクジラと推測されています。
「鯨塚 寛政十年」
谷素外の俳句「江戸に鳴る 冥加やたかし なつ鯨」が刻まれていますが読めません。
<鯨塚>
(碑文)
「武州荏原郡品川浦
天王洲漁人等建之
鯨鯢ハ魚中ノ王 本邦西南ノ海ニ多ク 東北ノ海ニ少ナリ 今年仲夏甲子ノ日 始子品川天王洲ノ沖ニ寄漁者舟ヲ以テ囲ミ 矛ヲ以テ刺 直ニ廳事ニ訴フ衆人コレヲ聞テ コレヲ見ント数日群集ス 諺ニ此魚ヲ獲時ハ七郷富潤フトフ 漁長ニ代ッテ祭之詞
玉池一陽井 素外
江戸に鳴
冥加やたかし
なつ鯨
寛政十年戌午夏
華渓稲貞隆書」
<鯨塚乃由来>
(碑文)
「鯨塚乃由来
此ノ鯨塚ハ寛政拾年(西暦一七九八年)五月壱日折柄ノ暴風雨ニモマレ乍ラ大鯨ガ品川ノ沖ニ這入リ込ミ是ヲ見ツケタ猟師達ハ舟ヲ出シテ遠巻ニシテ天王州ニ追イ込ミ遂ニ捕エタ 此ノ事ガ忽チ江戸ニ広ガリ見物客デ大賑イニ成リ五月三十日ニ芝ノ浜御殿(今ノ浜離宮公園)ノ沖ニ船デ引張ッテ行キ第十一代将軍家斉公ニ御覧ニ入レタ 此ノ鯨ノ背通リ長サ九間一尺高サ六尺八寸有ッタト言ウ 鯨塚ニハ左ノ句ガ刻ンデアル
江戸に鳴る 冥加やたかし なつ鯨
当時の俳人 谷 素外
昭和四十四年九月吉日 昭和大改修
東品川一三町会 鯨塚保存会」
<説明板「鯨碑」>
(説明板)
「品川区指定有形文化財
鯨碑
所在 東品川一丁目七番十七号 利田神社
指定 平成十八年十一月二八日(歴史資料第四号)
この鯨碑(鯨塚)は、寛政十年(一七九八)五月一日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。鯨の体長は九間一尺(約十六・五メートル)高さ六尺八寸(約二メートル)の大鯨で、江戸中の評判となった。ついには十一代将軍家斉が浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。
全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。また、本碑にかかわる調査から品川浦のように捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料である。
平成十九年三月一日 品川区教育委員会」
<品川浦の生活/品川沖の鯨の図/利田神社と新地の歴史>
(説明板)
「品川浦の生活
品川は江戸内湾に画し、室則時代から港として開けたところでした。江戸時代には大消費地の江戸に近いことから漁業や海苔作りがより盛んになり、将軍家にも献上していました。また、品川の海は江戸市中から行楽の場でもあり、四季折々に鱚やはぜ釣り、船遊び、潮干狩りの人びとで賜わいました。品川沖に浮かぶ白帆の姿をはじめ、潮干狩りや海苔採り風景など品川を描いた名所絵には必ずといっていいほど、海の光景が描かれています。埋め立てが進んだ現在、海はすっかり遠くなってしまいましたが、かつて海は品川の人びとの生活に深く結びついていたのです。
うちよする
浪は御浜の
おにはぞと
くじらは潮を
ふくはうち海
品川沖の鯨の図
1798年(寛政10)5月、天王洲の浅瀬に乗り上げて動けない大鯨を漁師らが捕まえました。長さ16m余り、高さ2mもあり、瓦版も出版され多くの見物人で賑わったといわれています。この話は江戸城にも伝わり、鯨は浜御殿(現浜離宮御賜公園)まで運ばれ十一代将軍家斉の目にも触れ、その時詠まれた歌が右記のものです。その後、鯨は解体され、骨は州崎弁天(利田神社)の境内に埋められました。
利田神社と新地の歴史
□1626(宝永3)(※寛永3と思われます。)
目黒川川尻に弁天社(利田神社)創建される
…他説に、『寛政3年(1791)に東海寺沢庵和尚がこれを祀った』とある
□1798(寛政10)
5月1日、品川洲崎に長さ九間一尺、高さ一丈余りの鯨があがる
□1834(天保5)
利田新地成立…猟師町地先築立で新地の検地が行われ、反別三反八畝二十一歩、高三石八斗七升の屋敷地がうち出される
□1854(嘉永7)
御殿山下砲台着工(現台場小学校敷地)
□1869(明治2)
神仏分離により南品川利田新地弁天堂内の不動堂北品川宿養願寺境内へ移転
…『神仏分離により社号を利田神社とした』
□1906(明治39)
品川町大字利田新地の一部区域の住民が自治組織「利田新地親交會」を結成
□1922(大正10)
大神輿奉納
□1926(大正14)
旧三丁目と天王洲付近の埋立てが許可される
□1931(昭和6)
大鼓山車奉納
□1956(昭和31)
小・中神輿奉納
□2005(平成17)年
町会設立100周年!」
「新交會創立三拾年紀年建之」「不詳の碑」
「品川沖之鯨高輪ヨリ見ル図」(勝川春亭 ボストン美術館)
品川沖に迷い込んだ鯨とそれを見物する人々の様子が描かれています。
鯨は2頭描かれていますが実際は1頭です。
「捕鯨の図」(一勇斎国芳)
寛政の鯨ではありませんが、歌川国芳が「捕鯨の図」を描いています。
目黒川を埋め立てた公園です。公園の北端から先は、水路(船だまり)となっています。
「寛政の鯨」は、セミクジラと推測されていますが、この公園には様々な鯨がいます。
<品川浦公園の由来>
公園の南入口に「品川浦公園の由来」の石板が掲げられています。
(碑文)
「品川浦公園の由来
東海道53駅の、親宿としての品川宿は1635年に 本陣の指定を受けたが、この本陣に接して流れていた 旧目黒川はその後 漁業の基地としても発達し、繁栄したところである。
1968年3月当区の 旧目黒川埋立事業が竣工して、旧目黒川の漁猟の永い歴史が閉じられるにあたって、埋立地内に区民のための、憩いの公園を設け、これを永く記念したい
1969年3月31日 東京都品川区建設部」
<スパイホッピングするザトウクジラ>
Google mapによれば「スパイホッピングするザトウクジラ」とあります。作者不詳です。
地面に開いた海から、クジラがスパイホッピングしています。
トイレには波が見えます。
<マッコウクジラのスプリング遊具>
遊具は潮を吹いているクジラです。
<鯨塚後ろのシロナガスクジラ>
鯨塚の後ろには、クジラがぶら下っています。
<モニュメント>
どこから見ても、何を象徴しているのかわからないモニュメントです。
鯨塚へ下りる階段脇に、説明板「利田新地」が掲げられています。
(説明板)
「利田新地(かがたしんち)
東品川一丁目の一部
南品川猟師町の地先を安永三年(一七七四)から埋め立て、天保五年(一八三四)に完成した面積一町(三千坪 約九九〇〇平方メートル)の土地です。
はじめは新しく開かれた土地ということで南品川新開地と名付けられましたが、開墾に着手した南品川宿名主利田吉左衛門の姓をとって利田新田と呼ばれました。」
ここは埋め立てられた旧目黒川が注ぐ海です。
現在では、つり船や屋形船が舳先を並べています。
<しながわ百景>
北品川橋の西詰、シェアサイクルポート前に「しながわ百景」が掲げられています。
「しながわ百景
区政40周年・区民憲章制定5周年記念 昭和62年度選定
4 品川浦と船だまり
平成29年 品川区」
<北品川橋> 品川区北品川1-21・東品川1-7
北品川橋は、大正14(1925)架橋の石造りの橋です。
「北品川橋」
「大正十四年九月竣功」
<北品川橋北の船だまり>
<北品川橋南の水路>
水路は、旧目黒川を埋め立てて設けられた「品川浦公園」で行き止まりとなります。