「通水100周年」
荒川放水路は大正13(1924)年10月12日に通水を開始し、令和6(2024)年10月12日に通水100周年を迎えます。
○ 新志茂橋と地蔵尊
○ 荒川知水資料館(アモア)
【館外】
・荒川放水路完成記念碑
・船堀閘門頭頂部
・京成押上線旧荒川橋梁基礎杭
・水神社
・青山士氏ゆかりの木
・日光御成道散歩
【館内】
・館内展示
・3階テラス
○ 荒川土手
・岩淵みんなの散歩みち
・荒川距離標
・岩淵リバーステーション案内板
○ 河川敷/水際
・攝政宮殿下御野立之跡
・ボードウォーク
・水位標柱
・取水塔
○ 旧岩淵水門
○ 岩淵赤水門緑地 (中之島)
・月を射る
・草刈の碑
○ 岩淵水門
○ 荒川岩淵緑地
・岩淵水門説明板
・岩淵防災ヘリポート
新河岸川に架かる新志茂橋(昭和五十五年十月竣工)を渡って、荒川知水資料館(amoa)へ。
橋銘板「新志茂橋」 「昭和五十五年十月竣工」 新河岸川上流 新河岸川下流
amoaから新河岸川と新志茂橋 荒川知水資料館掲示航空写真から抜粋加工
<地蔵尊> 北区志茂5-30-17地先
木製のこけしの首が据えられています。首だけ盗難に遭ったようです。
台座「水難供養」と刻まれています。
「由来
この地蔵は昔水難事故が多く供養のため地元有志により建てられました
昭和四十年五月十四日
供養日毎年七月十五日
志茂五水門自治会」
荒川知水資料館(通称:アモア)は、平成10(1998)年3月に荒川下流河川事務所の隣接地に開館し、
荒川下流河川事務所と東京都北区とで共同で運営しています。
「amoa」とは、英語名「Arakawa Museum Of Aqua」の英語名からつけた通称です。
荒川放水路と旧岩淵水門の完成を記念し、青山士を含む工事関係者らが建てた記念碑です。
(碑文)
「此ノ工事ノ完成ニアタリ多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶センカ為ニ
神武天皇紀元二千五百八十年
荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」
(プレート文)
「荒川放水路完成記念碑
この碑は荒川放水路の完成を記念して建てられたものである。
荒川下流改修事務所主任技師(現、工事事務所長)
であった青山士(あきら)および工事関係者一同が工事の犠牲者を弔うために資金を出し合ったものである。
台座は富士川の転石を、銘板の模様は当時の河川敷を埋め尽くした桜草があしらわれている。この工事の最高責任者であり功労者でもある青山士の名前は刻まれていない。 巨大な土木事業は関係者全員で造り上げていくものであるという青山主任技師の精神が簡潔に記されているとして著名である。」
荒川放水路完成後、水位の異なる中川との船の通航のために江戸川区につくられた船堀閘門(昭和4(1929)年竣工)の頭頂部です。
船堀橋閘門は昭和54(1979)年に撤去され、頭頂部だけが資料館前に移転し保存されています。
(説明板)
「船堀閘門頭頂部
荒川には、放水路開削前から隅田川から小名木川・新川(船堀川)を通じて江戸川に至る舟運ルートがあり、江戸の発展、
沿岸の産業や物資輸送に寄与してきました。そのルートが荒川放水路開削により、左右岸の堤防で遮られてしまうため、荒川と綾瀬川、中川、
小名木川が接する部分には、従来からの舟運を確保し、洪水時に逆流を防止するため、右岸側に小名木川閘門、小松川閘門を、左岸側に新川水門、船堀閘門を設置しました。荒川と中川を隔てる背割堤上にある船堀閘門は、高水時に両川の水位が異なる場合、これを船で連絡するためにつくられたものです。」
説明板の前にはるはずの基礎杭が見当たりません。
周辺をうろつくと、アモアの荒川側の出入口の左右に基礎杭が2本ありました。
(説明板)
「京成電気軌道株式会社施工の工事は、向島・四ツ木間2,224.9mの線路変更工事で、その荒川及び綾瀬川橋梁は杭打基礎に支持された4橋台、25橋脚の上に鋼板桁54連を架設し、向島、四ツ木方面に向かって、線路の盛土をしたものでした。
この橋は元々放水路に通水する前に、短いスパンで低い橋脚を並べた構造であった上、昭和30年代の高度成長期に、荒川周辺において大量の地下水を使用したことで起こった地盤沈下でさらに約1.7m下がり、さらに戦後の堤防高上げの際にも線路部分だけは低いまま存置されるなど、水運、水防上のネックになっていました。そのため50年代から掛け替え計画が策定されていましたが、平成3年1月の橋桁へのタンカー衝突事故を契機に一気に計画が進み、ついに平成11年9月4日には上下とも新橋梁への切り替えが終了しました。」
荒川放水路事業着手時、当時の事務所構内(現在の江戸川区小松川)に水神社が建立されました。
その後、昭和40(1965)年2月にこの場所に移転されました。
青山士ご家族によるお手植記念樹(ハナミズキ)があります。
「青山士氏ゆかりの木
(青山士ご家族によるお手植記念樹)
ハナミズキ(ミズキ科ヤマボウシ亜属)」
(説明板)
「日光御成道散歩
日光御成道散歩は、飛鳥山公園から岩淵水門までの約5.5kmのみちのりです。別名日光御成道と呼ばれた岩槻街道をたどり、赤羽駅から、一路荒川をめざし、下流域の水害を防ぐ為に建設された荒川放水路沿いを行く散歩道です。
荒川と岩淵水門
荒川はその名の通通り昔から氾濫を繰り返した川でした。特に明治43年(1910)八月の大洪水の時は、水は岩淵町から志村に沿うところでニ丈七尺(約8m)に達したと伝えられています。これを契機に、荒川沿いの町を洪水災害から守るため、政府は荒川放水路造成を計画し、新たな川の開削と水門工事を実施しました。これらは難関を極めて困難でしたが、蒸気掘削機など当時の最新技術を使ったり主任技師はパナマ運河建設に従事して研究するなどの努力により、水門は大正13年(1924)十月に完成しました。この岩淵水門は五つのゲートを持つ水門で、そのゲートの一つは後に常に船が通れるように改修されました。」
<入口>
「通水100周年」
荒川放水路は大正13(1924)年10月12日に通水を開始し、令和6(2024)年10月12日に通水100周年を迎えます。
カウントダウン表示があります。
<1階>
<2階>
企画展「荒川の橋」が行われていました。
「1人工河川・荒川」
「2荒川の水害と放水路の誕生」
「3青山士と荒川放水路」
「明治44年にパナマから引き揚げたときに持ち帰った旅行カバン」などが展示されています。
「荒川放水路とパナマ運河」
「荒川放水路を作った代表的な技師たち」
「4都市とともに歩む荒川」
「テラス」があり、荒川と岩淵水門が一望できます。
テラスには大きな「荒川流水模型」が展示されています。
「荒川流水模型」
<テラスからの眺望>
展示の展望写真
実際の展望
荒川土手へ上がる階段の右手に、案内距離板と、掲示板「岩淵みんなの散歩みち」があります。
「東京メトロ南北線赤羽岩淵駅 1090m
旧岩淵水門 90m
岩淵水門 850m」
堤防の河川敷道路に「荒川距離標」が埋め込まれています。
国土交通省の説明を見ると、荒川では、河口から22.0kmまでは、0.25m間隔で距離標が設置されています。
「荒川 距離標 右岸 20.75K 国土交通省荒川河川事務所」
「リバーステーションって、何だろう?」の案内板が建っています。
大正13(1924)年10月25日に荒川放水路通水後の様子を攝政宮殿下(昭和天皇)がこの場所から視察されました。
「攝政宮殿下御野立之跡
大正十三年十月月廿五日」
荒川の水辺にボードウォークが設置されており、岩淵水門と水位標識が良く見えます。
過去の洪水の水位を示した標柱です。
過去の水位の記録が示されています。
カスリーン台風(8.60m S22.9.16)、台風(8.07m S16.7.23)、狩野川台風(7.48m S33.9.27)等々。
旧岩淵水門は、大正5(1916)年から大正13(1924)年までの8年間をかけて建設されました。
工事を監督したのはパナマ運河建設に携わった青山士(あおやまあきら)です。
昭和30年代の改修工事で赤い色に塗りかえられたことから愛称「赤水門」の水門は、
現在は水門としての役目を終え、下流にある青い岩淵水門がその役割を果たしています。
旧岩淵水門は歴史的建造物として保存されています。
・「経済産業省近代化産業遺産」
・「東京都選定歴史的建造物」
・「北区景観百選」
<旧岩淵水門>
(説明板)
「旧岩淵水門
■旧岩淵水門のあらまし
昔、荒川下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そのため、明治44年から昭和5年にかけて新しく河口までの約22km
の区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。
現在の荒川と隅田川の分かれる地点に、大正5年から大正13年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和50年から新しい水門(旧岩淵水門の下流に造られた青い水門)の工事が進められ、昭和57年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。
長年、流域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子どもたちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されています。
近代化産業遺産
近代化産業遺産の価値を顕在化させ、地域活性化に役立てることを目的として経済産業省は平成19年度に国や地域の発展において貢献してきた建造物、機械、文書などを対象に「近代産業遺産群33」を取りまとめました。平成20年度には、その中の「国土の安全を高め都市生活や産業発展の礎となった治水・防砂の歩みを物語る近代化産業遺産群」において「旧岩淵水門及び荒川放水路」が認定されました。
このほかにも旧岩淵水門は「日本の近代土木遺産」「東京都選定歴史的建造物」「北区景観百選」に認定されています。
国土交通省荒川下流河川事務所」
(説明板)
「東京都選定歴史的建造物
旧岩淵水門
所在地 東京都北区志茂五丁目地先
設計者 青山 士
建設年 大正13年(1924)
旧岩淵水門は、明治43年(1910)東京下町を襲った大洪水を契機に、内務省が荒川放水路事業の一部として隅田川との分派点に設けた。
水門は、ローラーゲート構造で、幅約9メートルの五つの門扉からなっており、袖壁部も含めた長さは約103メートルの大型構造物となっている。本体は、煉瓦構造では力学的に対応が困難であったことから、当時では珍しい鉄筋コンクリート造として、大正5年(1916)に着工し、同13(1924)に竣工した。
昭和22年(1947)のカスリーン台風や昭和33年(1958)の狩野川台風の大出水の際も、機能を十分に果たしてきたが、昭和20年代後半からの東京東部地域一体における広域的な地盤沈下により、本水門も沈下したため、昭和35年(1960)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施され、現在の旧岩淵水門(赤水門)となった。
その後、昭和48年(1973)に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さに不足が生じたことから、昭和57年(1982)に約300m下流に新たな岩淵水門(青水門)が整備され、旧岩淵水門はその役目を終えることとなった。
東京都」
水門を渡りきったところに「岩淵赤水門緑地(中之島)」があります。
緑地には荒川リバーアートコンテスト特賞を受賞した、青野正氏作のオブジェ『月を射る』があります。
また、木立のなかに「草刈の碑」があります。昭和13(1938)年8月から行われた「全日本草刈選手権」を記念したものです。
選手権は戦争によって中止されてしまいました。
平成8(1996)年「第2回荒川リバーアートコンテスト」での特賞受賞作品です。
(プレート文)
「月を射る
青野 正
材質 リバーテン鋼
平成8年度 荒川リバーアートコンテスト特賞受賞作品
受賞者の言葉
この作品は、無垢の鉄棒を溶断し、一本づつ積み上げて製作しています。
私は、形あるものの消えゆく時間、造られたものが風化され「風になる」
という遥かなことに、思いを巡らせています。
「月を射る」では、古代の人々が憧れたであろう、
天・月・川面に映った世界、果てのない世界観を、想像してみました。
満月のときの明るい夜空に、水の上に、何か見えるとよいのですが。
荒川リバーアートコンテストは、荒川クリエーション実行委員会主催により
行われ、荒川の広々とした空間に映える美的造形物として、河川敷に設置す
ることを条件に公募したものです。
設置者 北区・荒川下流工事事務所」
昭和13(1938)年から昭和18(1943)年までの6年間、荒川土手で全国的行事の草刈競技が行われ、草刈日本一の栄冠を争いました。
題字と碑文は、徳富蘇峰95歳による書です。
(題字)
「草刈の碑 蘇鼠九十五」
(碑文)
「農民魂は 先づ草刈から 蘇鼠九十五」
(由来記)
由来記は、「横尾堆肥居士撰」とあり、横尾惣三郎の撰です。
(碑文)
「由来記
草刈は日本農民の昔ながらの美風で農民魂の訓練であり發露である。
金肥の流行につれて草刈が衰へ始めたので有畜農業の普及は却つて益々草刈の必要を認めたから草刈奨励の為め有志相圖り幾多の曲折を経て漸く男女青年團農学校壮年團と四組に分ち全國に亘って町村大會郡大會都道府県大會と選手を選抜し最後に全日本草刈選手権大會を昭和十三年八月より此の地に前後六箇年開いた。
鎌を競う選手四万余名熱戦各二時間に亘り両岸に観衆溢れ旗指物なびいて一世の壮観であった。
大東亜戦のため止むなく中止したが草刈魂を永達に傳ふるため農業團体其他篤志家の寄附を仰ぎ茲に草刈の碑を建立した。
蓋し農は國の大本草刈堆肥は土を作る農業の根本だからである。
昭和三十二年十月
全日本草刈選手権大會理事長 横尾堆肥居士撰
玄林 武田梅書」
(碑陰)
「草刈の碑建立發起者
草刈大曾長 下村宏
同 顧 問 後藤 文夫
日立製作所長 倉田主税
小野田セメント社長 安藤豊禄
第一物産副社長 水上達三
(途中略)
農民講道館農業短期大学長 横尾 惣三郎」
「横尾 惣三郎」
横尾惣三郎肖像(「農民講道館の眞精神」横尾惣三郎 昭和9(1934)年 国立国会図書館蔵)
明治20(1887)年12月〜昭和36(1961)年1月
内務官僚地方官として、長野県理事官、大分県理事官、愛知県理事官、樺太庁農林部長、香川県内務部長、埼玉県内務部長等を歴任(官報から記載)。
昭和9(1934)年、埼玉県与野町に「農民講道館」を創設。
昭和22(1947)年、農民講道館農業専門学校に改組。
昭和29(1954)年、農民講道館農業短期大学を開学、学長に就任。
昭和36(1961)年1月、他界。
横尾惣三郎氏の他界に伴い、氏の意志により農業高校を設置する前提で農民講道館が埼玉県に寄付され、埼玉県立与野農工高等学校設置(昭和37(1962)年)。
その後、埼玉県立いずみ高等学校に再編(平成11(1999)年)。
「徳富蘇峰」(近代日本人の肖像) 文久3年1月25日(1863年3月14日)〜昭和32(1957)年11月2日)
「下村宏」(近代日本人の肖像)明治8(1875)年5月11日 〜 昭和32(1957)年12月9日
<中之島からの眺望>
岩淵水門の正面が良く見えます。
旧岩淵水門に代わり新しく建設され昭和57(1982)年に完成した水門です。これより下流が隅田川です。
標識「1982 岩淵水門 Iwabuchi Suice Gate」は堤防を背に川を向いて河川敷に建っているので、堤防から見ると無地の看板です。
3門ある門扉は2門しか描かれていません。
<岩淵水門門扉銘板>
門扉が3門あり、それぞれ銘版がはめられています。
よく見ると、1979年9月と1982年10月とあり、時期が異なります。
中央の門扉は、水門が完成した昭和57(1982)年の3年前に据え付けられています。
<旧岩淵水門>
岩淵水門側から見た旧岩淵水門です。
<隅田川>
岩淵水門から見た隅田川です。スカイツリーが見えます。
岩淵水門を渡った先に説明板「岩淵水門」「岩淵水門周辺ガイド」「案内距離板」が掲示されています。
「東京メトロ南北線赤羽岩淵駅 1580m
旧岩淵水門 410m
荒川知水資料館 470m」
(説明板)
「岩淵水門
増水時に、荒川の水が隅田川へ流入することを防ぎます。
岩淵水門は、大正13年に完成した旧岩淵水門の老朽化、地盤沈下による高さの不足のため、昭和57年に旧水門の下流約300mに建設されました。平常時は、水門を開放し船の通行を確保するとともに、隅田川の水質を浄化するために荒川の水を流下させています。増水時には水門をしめて隅田川への流入をくい止め、首都東京を水害から守る大切な役割を担っています。
・完成年:昭和57(1982)年
・場所:東京戸北区志茂地先
・ゲートの大きさ:高さ16.7m×幅20.0m×3門(たたみ約620畳分)
・操作水位:荒川水位A.P.+4.00mで隅田川へ流入したとき
(荒川平常時水位より約27m上昇したとき)
・ゲートの重さ:214トン (1門あたり)
・ゲート開閉時間・:約50分
■岩淵水門のやくわり
平常時
●全門開放されていて、荒川の流量の約3割を隅田川に流し、隅田川の水質浄化の効用を果たしています。
●舟運に支障がないように全門開放されています。
増水時
●水門を閉め、荒川の水を隅田川に流さないようにしています。
国土交通省荒川下流河川事務所」
(岩淵水門周辺ガイド)
荒川岩淵緑地に岩淵防災ヘリポートがあります。
対岸の足立区農業公園側の堤防からの岩淵水門です。