<妙見堂参道>
「此経難持坂」上からも「妙見堂」への参道があり、こちらから行くと妙見堂の真裏に出ます。
<妙見坂>
(標柱)
「妙見坂(みょうけんざか)
『大日本名所図会』には「妙見堂、妙見坂の上にあり。妙見大菩薩を安置す。寛文四年甲辰七月紀伊頼宣卿の造立せし所なり。即ち照栄院の鎮守とす。」とあり坂名はこれに因む。
また 照栄院には元禄期に南谷壇林が開設された。本門寺に寄進された妙見菩薩立像は、のちに壇林の守護鎮守として、坂上のお堂に移されたと伝えられる。
昭和五十九年三月 大田区」
<百度石>
大正8年銘の百度石が階段を上がった右手にあります。
<玄武燈籠>
天保6(1835)年銘の玄武燈籠両基です。
それぞれに、妙見菩薩の神使の玄武(亀蛇)が亀と蛇に分けて彫刻されています。
燈籠の円筒竿に巻きつく「蛇」、それを台石として支える「亀」です。
左の燈籠は瓶の頭がとれており、右の燈籠は蛇の頭がとれています。
<妙見堂>
(説明板)
「大田区文化財
妙見菩薩立像(非公開)
木造寄木造り、玉眼、彩色、箔押。像高四三センチ。
この像を安置する厨子扉に記された銘文から、寛文四年(一六六四)に、徳川家康の子で紀伊徳川藩の祖である頼宣の「現世安穏後世善処」を祈念して造像されたことがわかる。
像背に、当寺の本門寺貫主、日豊(一六○○〜一六六九)の開眼墨書銘がある。製作年代、由来等が明確な妙見像として貴重である。
頼宣の妻、瑤林院(加藤清正の娘)が、本門寺に寄進したもので、元禄期(一六八八〜一七○四)に、南谷檀林(僧侶の学校)が開校された際に、その守護の尊像として当院に移管されたものである。
昭和五十年三月十九日指定 大田区教育委員会」
<いぼとり地蔵祠>
<樹老人祠>
<シンガポール チャンギー殉難者慰霊碑>
坂上と同じ標柱「妙見坂」があります。
日朗聖人の庵室として開創。
元禄2(1689)年に、池上本門寺の僧侶の学校「南谷檀林」が開設されました。
山門の左横の道を進むと、妙見坂です。
<緒碑>
「厄除開運 妙見第菩薩」碑
「南谷壇林趾」碑
「日朗菩薩草庵跡」碑
<大田区文化財>
「南谷檀林「板頭寮」遺構(非公開)」
「南谷壇林諸堂の棟札(非公開)」
「古文書(照栄院文書)(非公開)」
「日朗聖人坐像(非公開)」
「三宝尊像(非公開)」
<本堂>
本堂の額は「朗慶山」です。
(説明板)
「照栄院 縁起
正応四年(一二九一)日朗聖人の庵室として開創。日朗聖人没後荒廃したが、嘉吉年間(一四四一〜一四四四)に再興された。元禄二年(一六八九)南谷檀林という僧侶教育の学校を開設、明治二年(一八六九)に廃されるまで多くの高僧を送り出した。本門寺の役寺としての三院家の一。山上の妙見堂に祀られる妙見菩薩立像は寛文四年(一六六四)加藤清正の娘瑶林院が夫の紀州徳川頼宣の現世安穏後世善処を祈念して奉納したもの。」