○ 万両塚
○ 弥生時代住居跡/堤方権現台古墳
芳心院(紀州徳川頼宣の娘、家康の孫)の墓は、二重の空堀に囲まれた墓地となっています。
建造費が一万両に及んだことから「万両塚」と呼ばれています。
{江戸名所図会 本門寺}
「江戸名所図会 本門寺」から、万両塚部分の抜粋です。
<池上永寿院 万両塚>
「芳心院墓所
徳川家康の孫、紀州徳川家初代藩主頼宣の娘、鳥取池田家初代藩主池田光仲の正室、芳心院は、お墓をつくりました。」
(説明板)
「芳心院墓所
万両塚に埋葬されている「芳心院殿妙英日春大姉」は、徳川家康と側室お万の方の孫にあたり、紀州徳川家初代藩主頼宣の娘、鳥取池田家初代藩主池田光仲の正室です。
宝塔背面の銘文には、芳心院の家系・人となり・信仰の深さと「逆修七分全得」(生前に墓をつくるなどの善行を積めば、七の功徳全てを得ることができる)のために生前に建てた自分のお墓であったことが記されています。
宝塔内部からは、法華経巻子本八巻と火葬骨の収められた青銅製の骨蔵器が発見されました。自身の法華経信仰を三百年後の私たちに伝えてくれる貴重なお墓です。
万両塚をめぐる系図
永寿院と芳心院
祖母養珠院の仏縁で、永寿院に帰依していた芳心院は、息子永寿丸が多病であったため、本門寺の祖師に祈念し、もしつつがなく成長した時には出家させると願をかけた。この願はかなえられ永寿丸は立派に成長したが、その出家させるのを惜しみ、観成院日遥を猶子として、永寿丸の身代わりとなして、永寿院の住職とした。それ以前は蓮乗院という寺号であったが、芳心院より永寿院の寺号を賜った。
芳心院の親戚関係
徳川家康とお万の方の孫
紀州頼宣の娘、池田光仲の妻、
徳川光圀のいとこ、徳川吉宗の叔母」
「万両塚は 徳川家康と側室お万の方の孫
芳心院殿妙英日春大姉 の墓です。
万両塚とは 建設に一万両かかったという俗説から名づけられた俗称です。」
「外堀に水が湛えられていた形跡はなく、当初から空堀であったことがわかりました。
蛇よけに水が張られていたという話は伝説だと考えられます。」
<石門>
「石門
宝塔の門柱基礎と寸法が合わないため外堀の外に建てました。何度も加工を加えられたあとがあります。」
<芳心院の侍女たちの墓と供養塔>
「芳心院の侍女たちの墓と供養塔
信仰生活を共にしていた大名の正室と侍女たちの暮らしが偲ばれます。」
<歴代住職墓所>
万両塚調査の際に弥生時代の集落跡が発見され、そのレプリカと、堤方権現台古墳(復元)があります。
<弥生時代の集落跡>
「弥生時代 池上の山の上には大きな集落がありました」
「江戸時代 万両塚を築くとき住居跡半分が壊れました」
「いのちの営みを伝えるために住居跡は再生されました」
(説明板)
「万両塚調査の過程で、約二千年前の弥生時代の住居跡が十棟以上発見されました。
それらは時間的なズレがあり、かなり長い期間この地に集落が存在していたことがわかります。
その中の一棟、江戸時代に万両塚を築くときに半分壊れた住居跡を、歴史が重層する貴重な遺跡として現位置に再生保存をしました。
また、住居跡からは完全な形に近い土器が数多く発掘されました。
発掘された土器は弥生時代後期のもので、櫛描文や縄文が描かれています。土器の表面に焼け焦げたあとがあるものもあり、火災にあったためだと考えられます。
池上の古代の記憶が、足元からよみがえりました。」
<堤方権現台古墳>
(説明板)
「6世紀前半に築かれた古墳。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』にこの地にあった熊野神社後方の塚から「古刀古器」が出土したという記述があり、古墳であることは推定されていました。
万両塚周辺調査の際、古墳の周濠・埴輪・須恵器・土器が出土。平成19年には本格的調査を行ない、馬具一式・木製の鞘に収められた鉄製直刀・鉄鏃を取り付けた矢が数十本等の副葬品が出土。さらに、刀の脇の土の部分に白いしみのようなものがあり、骨盤から下の下半身の骨格であることが確認されました。全体で4mほどの木棺に副葬品とともに納められていたことが想像されます。
なお、昭和7年に住宅が建てるために整地した際に、古墳の主体部ごと上半身が削りとられたではないかと考えられています。」
<復元地層トレンチ>
<復元弥生住居跡>
古墳の歴史が掲示されています。