Discover 江戸旧蹟を歩く

 池上

  ○ 池上温泉場光明館
  ○ めぐみ坂
  ○ 「木下順庵先生之墓跡」「当地由来」
  ○ 曙楼門柱跡
  ○ 妙雲寺


池上温泉場光明館 大田区池上1-11-1 本門寺公園

 明治19(1886)年に、今の池上本門寺公園内に「池上温泉場光明館」(明ぼの楼・光明楼・光明館)が開業しました。
 池の付近から鉱泉が湧き出ていて、桶で担いで運び、風呂を沸かしました。

 明治28(1895)年に「明ぼの楼」は手狭となり、木下順庵の隠居跡(現:大森めぐみ教会 池上1-19-35)に移転しました。
 昭和4(1929)年に閉鎖しています。
 光明館は鉱泉宿として残り、後に「松葉館」に改名しました。
 その後温泉は廃止となり、昭和13(1938)年12月に東京市の池上本門寺公園が設立されました(その後、大田区に移管)。
 (「わがまち池上」124号、125号を参照しました。※古い記事はHPから削除されています。)

 (池上本門寺公園〜本門寺墓地側入口)
  
   
 

「一日の行楽」(田山花袋 大正7年)/「東京近郊一日の行楽」(田山花袋 大正12年)

 田山花袋が、移転後の「明ぼの楼」について記述しています。
 鉱泉宿兼料理屋(一方つれ込み宿)としているので、移転後も、鉱泉湧出地(現:本門寺公園)から運んで沸かしていたか、新たに堀ったのでしょうかね。

「この本門寺の東の山の表に当つて、鉱泉宿兼料理屋の明ぼの楼がある。半ば、丘によつて建てられてあつて、その入口は丘の下になつてゐるが、楼は階梯で高く上へ登つて行くやうになつてゐる。矢張、梅の名所で、楼をめぐつて皆梅花である。春は遊客がかなりに多く集まつて来る。
 この家は一方つれ込宿で、客がよく藝者などを伴れて泊りに来る。」

   


めぐみ坂 大田区池上1丁目18番・19番

 かつては、昭和4(1929)年までこの地にあった料亭「あけぼの楼」 にちなみ「あけぼの坂」とも呼ばれた坂道です。

(大田区ホームページ「めぐみ坂」より引用

「めぐみ坂
 池上一丁目18番と19番の間を堤方神社脇まで上がる坂道。坂を上がる左側にめぐみ教会があるため、この名で呼ばれることが多いようです。
 ところが、昭和5年発行の『大東京川崎横浜復興大地図』では、この坂は「あけぼの坂」となっています。明治時代中期に、徳富蘆花の小説『富士』にもでてくる料亭「あけぼ乃楼」が現在のめぐみ教会の敷地に開業し、それにちなんだ名であろうと思われます。
 「あけぼ乃楼」は、明治大正期は大変繁盛し、元勲、貴族が連夜宴を催し、日露戦争の戦勝祝賀会も催されたと伝えられていますが、昭和4年に廃業しました。
 地元の古老の方々によると、この坂は古くは相の坂とも呼ばれていたそうです。」
 

<標柱「めぐみ坂」> 大田区池上1-19

「めぐみ坂
 現在では、坂の西側にめぐみ教会があるため、めぐみ坂と呼ばれることが多いようである。かつては、昭和四年までこの地にあった料亭「あけぼの楼」 にちなみ「あけぼの坂」とも、古くは「相の坂」とも呼ばれた坂道である。
 昭和六十三年十一月 大田区」

    


「木下順庵先生之墓跡」「当地由来」 大田区池上1-19-35 大森めぐみ教会

 大森めぐみ教会の正門のかたわらに「木下順庵先生墓跡」碑と、説明板「当地由来」が掲げられています。

     
 

<木下順庵先生之墓跡>

 墓は、大正3(1914)年に大塚先儒墓所に改葬されており、墓跡碑が建てられています。

  
 

<当地由来>

「当地由来
 大森めぐみ教会の正門の傍らに建つ「木下順庵先生墓跡」の碑は、この地に江戸前期の儒学者として有名な木下順庵(一六二一〜九八)の基があったことを伝えている。
 木下順庵は、五代将軍徳川綱吉の時(一六八七〜一七○九)、幕府の儒官、将軍の侍講に挙げられ、新井白石ら多くの儒学者を育てた。その功により、元禄十一年(一六九八)に亡くなると、幕府よりこの地を墓所として与えられ、堤傍(堤方)村村民荒忠七とその子孫が墓を守っていたが、大正三年(一九一四)全国の儒者とともに小石川の大塚先儒墓所に改葬された。
 明治期になって、この地で鉱泉が発見されると、明治十九年(一八八六)に河野実成が大料亭「明ぼの楼(明保乃楼、曙楼)」を建て、光明館などの池上温泉場が設けられた。池上本門寺に連なる台地斜面にあり、達く房総を望む景勝地であったことから、多くの政治家や著述家たちが訪れた。田山花袋の『東京近郊』や徳富蓋花の『富士」などにも登場する。庭には無数の梅や南天等が植えられていたといい、今も庭内に残る二本の梅の木は、三代将軍家光(一六二四〜五○)のお手植え梅と伝えられる。
 この地に、大森めぐみ教会と幼稚園が移転してきたのは、昭和二十年(一六四五)五月のことである。大森めぐみ教会と幼稚園は、昭和二年(一九二七)、大田区新井宿(現中央七丁目)に岩村清四郎牧師が設立、更に昭和十四年(一九三九)めぐみ高等女学校を創立したが、不幸にして戦災によって焼失したため、教会と幼稚園だけがこの地に移転した。敷地二○○○坪。」

  


曙楼門柱跡 大田区池上1-19-40

 妙雲寺の駐車場の東門脇に、説明板「曙楼門柱跡」が掲げられています。

(説明板)
「曙楼門柱跡
 当山は江戸幕府の不受不施禁圧と明治維新政府の廃仏政策の打?により境内地の大半を失い、こ^に明治初期創業された料亭曙楼の門柱が建てられていた。木骨煉瓦造りの珍しい構造で保存を望む声も多かったが、木骨の腐食甚しく復旧不可のため、日運聖人七百遠忌記念当山建設事業の折除却された。
  妙雲寺」

    
 

<庚申塔>

 確認できませんが、資料によると延宝8(1680)年銘らしい庚申塔があります。

    


妙雲寺 大田区池上1-19-40

<縁起>

「妙雲寺 縁起
 元和年間(一六一五〜一六二三)長勝寺と同じ智雄院日正聖人により開創。小湊誕生寺の末寺となる。守護神として若宮八幡社(堤方神社)を勧請したのもこの頃と思われ、のちに妙雲寺が別当となる起因となった。
 駐車場入口にある庚申塔は、青面金剛と三猿が「見ざる、聞かざる、言わざる」の謹慎態度を示して浮彫りにされたもので、水をかけて祈願すると足腰が丈夫になると伝えられている。」

    


戻る