池上
○ 池上本門寺
「江戸名所図会 本門寺」
複数の挿絵を繋げています。
「絵本江戸土産 池上本門寺」(広重)
門前の題目塔、霊山橋、総門、96段ある石段坂が見えます。
「江戸近郊八景之内 池上晩鐘」(広重 天保9(1838)年)
門前の題目塔、霊山橋、総門、96段ある石段坂、仁王門、祖師堂、五重塔が見えます。
「江戸自慢三十六興 池上本門寺会式」(三代豊国、二代広重)
会式に集う人々が描かれています。
「武蔵百景之内 池上本門寺」(小林清親 明治17年)
明治の頃の会式の夜の様子が描かれています。
「池上本門寺」(東京風景 小川一真出版部 明治44年4月)
明治の頃の会式の光景です。
<総門> 大田区文化財
(説明板)
「大田区文化財 総門と扁額
総門は、主柱間五・三メートル、鷹さ六・四メートル。綜欅素木造。一間一戸の高麗門である。江戸時代に編さんされた『新編武蔵風土記稿』によれば元禄年間(一六八八〜一七○四)に建造された。池上本門寺山内に現存する古い建築物の一つで、歌川広重の「江戸百景」などにも描かれ、著名である。
扁額に浮彫りされた「本門寺」の文字は、熱心な法華経信奉者で、また名筆家として知られた本阿弥光悦(一五五八〜一六三七)の書を彫刻じたものである。背面銘文から、寛永四年(一六二七)、本阿弥一族が父母の供養のため三堂(総門・楼門・祖師堂)に掲げた額に一つであることがわかる。本阿弥一族の日蓮宗とのかかわりを伝える貴重な遺品である。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会」
<此経難持坂>
表参道九十六段の石段坂。
慶長年間(1596年〜1615年)に加藤清正が寄進したものと伝えられています。
江戸名所図会にも此経難持坂が描かれています。
<標柱「此経難持坂」>
「此経難持坂 (しきょうなんじざか)
この石段坂は、慶長年間(一五九六〜一六一五)加藤清正の寄進によるものと伝えられる。「法華経」宝塔品の詩句九十六文字にちなんで石段を九十六段とし、詩句の文頭の文字「此経難持」をとって坂名とした。なお、石段は元禄年間(一六八八〜一七○四)に改修されたといわれる。」
(説明板)
「大田区文化財
池上本門寺の石段
この石段は、加藤清正(一五六二〜一六一一)の寄進によって造営されたと伝えられ、「法華経」宝塔品の偈文九六文字にちなみ、九六段に構築され、別称を「此経難持坂」という。
なお、元禄(一六八八〜一七○四)の頃に改修されているが、造営当時の祖型を残しており、貴重な石造遺構である。
清正は慶長十一年(一六○六)に祖師堂を寄進建立し、寺域を整備しているので、この石段もその頃の所産と思われる。
昭和四十九年二月二日 指定 大田区教育委員会」
<女坂>
「此経難持坂」の右側から,ジグザグに上る階段が「女坂」です。
平成14(2002)年4月1日開通。
<女坂上の二碑>
「辞世碑」
輝子とあります。
「顕彰碑」
碑文中、女史とあり女性の方の顕彰碑のようです。
戦時供出により失われた星亨銅像の台座の上に、北村西望作の日蓮聖人説法像が建っています。
(説明板)
「日蓮大聖人説法像 星亨銅像跡
この像は宗祖第七百遠忌記念として昭和五十八年富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納されたもので斯界の権威北村西望先生の作品です。(像の性質は純アルミ、高さ三・六米、重量一瓲)
もとここには明治の政治家星亨先生の銅像がありましたが、今般星家のご協力により台座を奉納頂きこの像を建立しました。
昭和五十八年十月吉日 大本山 池上本門寺」
<日本看護婦会慰霊塔>
<犀陽野口君碑>
野口之布(のぐちゆきのぶ)(1830〜1898年)の顕彰碑。
<新東京八名勝>
昭和7(1932)年に報知新聞社が「新東京八名勝」を選定、その記念碑が建っています。
(参考)
【新東京八名勝】
池上本門寺 西新井大師 北品川天王社 日暮里諏訪神社 赤塚の松月院 目黒の祐天寺 洗足池 亀戸天神
【新東京一六景】
雑司ヶ谷鬼子母神の森 大井の大仏 水元の水郷 奥沢の九品仏 新井薬師 柴又帝釈天 目黒不動 篠崎堤の桜 堀切の花菖蒲 善養寺の松 哲学堂 三宝寺池 大宮八幡 滝野川の渓流 丸子多摩川の丘 豊島園
<長栄堂>
仁王門の手前、右手に「長栄堂」はあります。
(説明板)
「長栄大威徳天縁起
当山の守護神として安置し奉る長栄大威徳天は その昔高祖日蓮大菩薩 佐渡島御配流中 塚原三昧堂にて日夜法華経御読誦の折柄 初めて白髪の翁と現れ 法華経の行者を守護し別て海上安全諸縁吉祥の守護を成さんと誓い給い 高祖御生涯の間影身に添いて守護し 神変不思議の通力を現じ給う
高祖当山にて入滅の後は長栄山の名の如く長栄大威徳天と仰がれ永く此の山に留まって末法萬年の末までも法華経の信者行者を守護すべしとて無量の神力を以って済度し給える尊神なり
されば今日に至るまで威徳いよいよ広大にして一山益々栄え信仰帰依の人々守護利益を蒙らずということなし」
「江戸名所図会 本門寺」
江戸名所図会の挿絵には「いなり」と描かれています。
昭和37(1962)年銘の川口市産の天水桶があります。
「製作人 川口市 山崎甚五兵衛」
<仁王門(三門)>
現在の仁王尊像は、平成13(2001)年に開眼供養されてます。
以前のアントニオ猪木をモデルとする仁王尊像は本殿に祀られています。
<ほうき小僧>
仁王門の裏手に、ほうき小僧(珍念像)が建っています。
児玉誉士夫が、夫人の追善供養のため建立。
良寛辞世の句と言われている「裏を見せ表を見せて散る紅葉」(児玉安都子の書)
<大田区戦歿者慰霊塔>
「慰霊塔建設誌
昭和二十七年四月八日
大田区戦歿者慰霊塔建設奉賛会」
<日露戦役忠魂之碑>
「明治三十九年十月」
<日朝堂>
本門寺の三門からすぐ左側の堂が日朝堂です。
戦災により焼失しましたが、昭和48(1973)年に再建されました。
日朝堂の左に浄行菩薩が祀られています。
(説明板)
「日朝上人略縁起
当堂(日朝堂)は常唱堂ともいい大曼荼羅御本尊と共に眼病救護の行学院日朝上人をおまつりいたしております
日朝上人は応永二十九年(一四二二)伊豆宇佐美でご誕生になり八才で出家され苦修錬行 昼夜常精進の行学修行を続けられました
学徳兼備の誉れ高く 四十一才の時 身延山第十一世法主となられ 現在の身延山久遠寺隆昌の基礎を築かれ 又 関東に布教しては新寺四十余ヶ寺を建立されました
御年六十一才の時 永年にわたる止暇断眠の苦行と教化ご精励の過労から両眼失明の厄に遭われましたが それを自らの不徳として懺悔し ますます不惜身命の精進を続けられましたところ 不思議の経力により眼病は全く快癒いたしました
御年六十七才の三月眼病消滅の御本尊をお書きになり なお一層教化と著述に(著書七百余巻)専念され 明応九年(一五○○)七十九才を以てご遷化されました
当山では日朝上人の徳を讃え ご尊像を当堂にご安置いたしましたところ日を追って参詣者が多くなり 常にお題目を唱える道場として知られるようになりました
ご参詣の皆様も 法華経信仰のご縁と 日朝上人の学徳にふれて頂き ご一緒にお題目修行をいたしましょう
大祭 七月二十五日 ご縁日 毎月二十五」
<梵鐘> 大田区文化財
瑤林院が正保4(1647)年に寄進した梵鐘を、正徳4(1714)年こ改鋳したものです。
改鋳後も当初の銘文が残されています。戦災を受け、現在は鐘楼脇に置かれています。
(銘文)
「この梵鐘は正保四年当山第十七世日東上人の代に加藤清正公の息女瑤林院の寄進によって新鋳されたのを七十年の後第二十三世日潤上人の代に改鋳したものであって爾来二百三十余年鯨音四郡に震い霊域に荘厳を加えていた然るに昭和二十年四月十五日空襲の戦火を蒙むり嫋々たる余韻を失うにいたった檀家総代の児玉誉士夫はこのことを寂寥とし発願して新に梵鐘を造ったよってその撞初式に古い梵鐘を此處に安置して後世に傳えることとした
昭和三十九年十一月十三日」
(説明板)
「大田区文化財 梵鐘
青銅製鋳造 総高二二五センチ
聖徳四年(一七一四))、紀州粉川(粉河)の鋳物師木村将監安成によって改鋳されたものである。宝永七年(一七一○)の火災により旧鐘が損傷し改鋳したと伝えられる。旧鐘の銘文が再刻されており、元々は正保四年(一六四七)、瑤林院(紀伊徳川頼宜の室・加藤清正の娘)によって寄進されていたことが知れる。
昭和二十年(一九四五)四月の空襲で一部に亀裂と歪みを生じ、現在は鐘楼脇に保管されているが、江戸時代初期の形式を示す作品であるとともに、旧鐘の銘文が再刻されていることも貴重である。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会」
(大田区文化財説明板)
鐘楼前に、文化財説明板がずらりと並んでいます。
「日朗聖人坐像(非公開)」
「日輪聖人坐像(非公開)」
「法華経(紺紙金泥写経)(非公開)」
「一切経版本(天海版)(非公開)」
「古文書(池上本門寺文書)(非公開)」
「柄香炉(非公開)」
<日樹聖人の五輪塔> 大田区文化財
鐘楼の右後ろにあります。
日樹の信奉者たちによって、寛永7(1630)年以前に建てられました。
(説明板)
「大田区文化財 日樹聖人の五輪塔
この塔は本門寺山内最大の五輪石塔で、総高約四メートル、戦災による破損がいちじるしく、造立年記銘は見えないが、上から三段目の火輪斜面に「日樹(花押)」の署名が刻まれている。
したがって、本塔は、日樹が不受不施事件で信州に流される寛永七年(一六三○)より前の造立である。
しかも、地輪をはじめ、塔の前面に数百名の奉加者の名を刻みつけてあることは、日樹とその信者層、ひいては江戸初期の池上本門寺外護者の実態と、不受不施史研究上、極めて有力な資料である。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会」
<加藤清正供養塔> 大田区文化財
霊宝堂の裏手にあります。
慶安2(1649)年6月14日に、瑤林院(徳川頼宣夫人)が父清正供養のために造立しました。
正面には、慶長16(1611)年6月14日が清正の命日として記されています。
「慶長十六年辛酉
浄池院殿日乗台靈
六月下浣四日遠行」
(説明板)
「大田区の文化財 加藤清正供養塔
山内最大級の宝篋印塔であり塔身・笠・相輪が完備している。
この供養塔は加藤清正(一五六二〜一六一一)の息女で紀伊徳川頼宜の室(夫人)瑤林院(一六○一〜一六六六)が、父清正の満三十八年目の忌日に当る慶安二年(一六四九)、その供養のために造立したものである。
加藤清正は、安土桃山時代の武将として有名であるが、熱心な日蓮宗信者でもあった。清正父娘の信仰心と孝養心がうかがえる供養塔である。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会」
<加藤清正朝臣像>(「肖像」野村文紹 国立国会図書館蔵)
<手水舎>
<案内所>
<大堂(祖師堂)>
<霊宝殿>
<奉安塔宝輪>
平成11(1999)年、霊宝殿新築のため解体。
平成15(2003)年、記念として宝輪だけがここに建てられました。
<経蔵> 大田区文化財
(説明板)
「大田区文化財 経蔵
構造・形式は、方三間裳階付き、宝形造、銅板瓦棒葺、輪蔵形式。
経蔵内部に、心柱を軸に回転する八角形の書架(輪蔵)があり、かつては一切経(区指定文化財)が収められていた。
経蔵内部の柱等には、工事に関係した職人をはじめ、講名や氏名、住所等が刻まれ、経蔵建立時の寄進者が広範囲に及んだことがうかがえる。『新編武蔵風土記稿』によれば、天明四年(一七八四)に再建されたものと伝えられる。
昭和四六年(一九七一)境内整備により現在地に移築されたが、江戸期の輪蔵形式の経蔵は都内でも残存例が少なく貴重である。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会」
<清正公堂>
清正公堂(三重塔)が再建中です。令和6(2024)年まで工事が続きます。
<食事処>
<境内図>
大堂裏の駐車場に境内図が掲示されています。わかりやすいです。
<本殿(釈迦殿)>
本殿は昭和44(1969)年の建立です。
外陣に、アントニオ猪木さんがモデルになった円鍔勝三作の仁王像(昭和54(1979)年製作)があります。
猪木さんは「師匠が眠るお寺の門番になれるなら本望です」と快諾したそうです。
本門寺には力道山の墓があります。
<五重塔> 大田区池上1-1 国重要文化財
慶長12(1607)年建立の国重要文化財です。