○ 前田利家室の層塔
○ 加藤清正室の層塔
○ 水難死者供養塔
○ オナイダ号紀念碑
○ 池上の杜
○ 幸田家の墓所
○ 佐伯矩博士顕彰碑
○ 木挽町狩野家の墓
○ 熊本藩細川家墓所
○ 於須磨の方の墓
○ 高松藩6代藩主松平頼真正室墓
○ 児玉誉士夫の墓
○ 大野伴睦の墓
○ 力動山の墓所
江戸名所図会にも層塔が見えます。
(説明板)
「大田区文化財
前田利家室の層塔
この塔は、前田利家の側室、寿福院が、元和八年(一六二二)に、自身の逆修供養のために建てた十一重の層塔である。このことは当寺十五世(復歴)日樹の銘文でわかる。
寿福院は、第三代加賀藩主、利常の生母で、豊臣秀吉没後、徳川家との微妙な臣従関係を解決するために、江戸に差し出され、人質となった。
現在、相輪と上部の数層を失って、わずか五重を残すのみである。屋蓋の反り具合から見て様式的に古い形を示し、注目される。
なお天保四年(一八三三)の修復銘もある。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会」
(説明板)
「大田区文化財
加藤清正室の層塔
この塔は、江戸時代初期に造立された軒の美しい層塔である。現在では相輪も失われ、八層を残すのみとなっている。初層塔身の銘文によれば、寛永三年(一六二六)に、十一層の石塔として建てられた。
加藤清正(一五六二〜一六一一)の室(夫人)であり、清正の嫡男忠広(一六○一〜五三)の母である正応院が、生前に自分のために仏事をおさめ、死後の冥福を祈るという逆修供養のために建てたものである。本門寺一五代日樹が開眼している。
初層の塔身に追刻されている慶安三年(一六五○)の銘は、正応院の命日である。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会」
「南無妙法蓮華経 各國 水難死者供養塔」
「昭和八年九月」
正面「IN MEMORY」から始まる英文銘が刻まれた紀念碑です。
明治3(1870)年1月24日に観音崎沖で沈没したアメリカ軍艦オナイダ号を
明治22(1889)に引き揚げた際に、発見・回収された遺骨の供養碑として造立されました。
池上の杜は、ペット供養墓です。
入口には、鳩2羽と猫と犬のモニュメントがあります。
明治25(1892)年銘の「鳥獣魚虫法界万霊供養塔」を平成29(2017)年に移設・復興しています。
「鳥獣魚蟲法界萬霊供養塔」
「明治廿五年十月」
「幸田露伴の墓」
左「露伴幸田成行墓」、右「幸田幾美子之墓」です。
「幸田露伴」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
慶応3年7月23日〜昭和22年7月30日(1867年8月22日〜1947年7月30日)
「幸田文の墓」
幸田文(こうだあや)は、幸田露伴の次女で随筆家、小説家。
「幸田文」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
明治37年9月1日〜平成2年10月31日(1904年9月1日〜1990年10月31日)
「幸田延の墓」
幸田延(こうだのぶ)は、幸田露伴の妹で音楽家。
「幸田延先生記念碑」
左に、幸田延の作曲した「天」の楽譜と、右に、歌詞が刻まれています。
「幸田延」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
明治3年3月19日〜昭和21年6月14日(1870年4月19日〜1946年6月14日)
本門寺公園入口脇に「佐伯矩博士顕彰碑」があります。
「栄養学の父」
佐伯矩博士顕彰碑」
「佐伯矩博士略年譜」
木挽町狩野家の墓です。三基ともシンプルな亀趺の墓です。
手前、奥左、右へ。
・狩野晴川院養信 弘化3(1846)年 「晴川院殿會心齋 法印養信日叡大居士」
右隣りにあるのは養信の筆塚です。
・如川周信 享保13(1728)年 「晃曜院法眼周信靆雲日洽大居士」
・養朴常信 正徳3(1713)年 「常心院古川道雲日觀大居士」
於須磨の方(深徳院)は、八代将軍徳川吉宗が紀州藩主の頃の側室で、九代将軍徳川家重の生母です。
一画には「釣人の主を思ふ夕時雨」という安都子の句碑が建っています。
虎の像は、大野伴睦の虎のコレクションの一つ。
力道山の墓所への案内板が随所に出ています。
「力道山之像」
「力道山之碑 児玉誉志夫書」
「力道山先生名は百田光浩 九州大村の産 幼にして角界を志し 関脇に栄進せるも 一九五一年プロレス界に転身 爾来研鑚鍛錬 又多くの門弟を養成 後進の道を拓き 斯界の始祖と奈り隆盛を斎す 一九六二年WWA世界選手権を獲得名声世界に洽きも 昨年末不慮の災に遭い急逝 時三十九才 一周忌に際し 門弟一同碑を献納 謝恩の意を捧げつゝ不滅の遺業を讃う
一九六四年十二月十五日 建立」」
「大光院力道日源居士」