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 六阿弥陀伝説 船方神社(十二天塚)


○船方神社(十二天塚) 北区堀船4-13-28

 江戸名所図会には「十二天森」として「足立姫の侍女の死骸を収めて十二天と称す 船方村の鎮守なり」と記載されています。
 社殿は隅田川を背に建っています。

     

(説明板)
「船方神社の十二天塚
  北区堀船四ー一三ー二八 船方神社
 船方村鎮守の船方神社は、江戸時代、鬱蒼とした森の中にあって十二天の森・十二天社とばれました。本殿の右脇柵内にある十二天塚と彫った石碑は、次の伝承にもとづいて建てられたものです。
 昔、この地域の荘園領主の豊島清光は子供に恵まれず、熊野権現の神々に祈願して一人の姫を授かります。成人して足立少輔に嫁がせましたが、心ない仕打ちを受けた姫は入間川(=荒川)に身を投げ、十二人の侍女も姫を追って身を沈めたという話が六阿弥陀伝承の中にあります。十二天とは、この十二人の侍女をさすと同時に帝釈天をはじめとする神々をいいます。これを密教では世の中を守る神々として非業の死を遂げた人々を鎮魂するため塚などの祭壇にまつりました。
 密教と深く結びついた熊野信仰もまた、十二所権現・十二社・熊野権現・王子宮・若宮と呼ぶ分霊が、平安時代末期から室町時代にかけて全国各地にまつられましたが、熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では悲しい侍女達の地域伝承と密教の十二天や熊野信仰とが結びつき、船方村の十二天社としてまつられたものともいえます。
 なお、この伝承は江戸時代、六阿弥陀参詣の礼所寺院によって縁起化されました。しかし、荒川に身を沈めたのは清光の姫でなく足立庄司の姫だという伝承、姫の父親に実在しなかった人物の登場する点や伝承の時代設定とは異なる奈良時代の高層の行基が登場する点などのように付会性が強く、縁起の内容は寺院により少しずつ異なって伝えられています。
  平成六年三月  東京都北区教育委員会」

  
 

<百度石/しづく石>

   
 

<御嶽神社>

 社殿の右手に「御嶽神社」があります。

  
 

<水神宮>

 社殿の左手に「水神宮」があります。

    
 

<十二天塚>

 社殿右手の柵内に「十二天塚」等があります。

 「十二天塚」と「村社船方神社祭神 日本武尊 大国主神 少彦名神 猿田彦神 鎮座」が並んで建っています。

    
 

<凱旋紀念 明治丗七八年役>

 日露戦争の紀念碑です。

  
 

<その他>

   
 

<煉瓦造神輿庫>

 船舟神社境内の左手に煉瓦造の神輿庫があります。
 「奉納 廣岡幾次郎」とあります。
 あらかわ遊園に、かつて広岡煉瓦工場がありました。
 煉瓦は広岡煉瓦工場製のものでしょう。

     

 ※備考 住吉神社にも、煉瓦造りの神輿庫(明治43(1910)年12月)があります。こちらで記載
 

<隅田川テラス>

 船方神社から、隅田川のテラスへ。
 上流には、足立姫が身を投げたといわれる浅間渕(足立区宮城2丁目)があります。
 下流には、右手にあらかわ遊園、アリスの広場があります。
 小台橋の近くに、かつて小台の渡しがあり、西新井大師や六阿弥陀に詣でる人々も多く利用しました。

      上流(浅間渕方面)               下流(小台橋方面)
    


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