Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 法性寺(柳島妙見堂)


○法性寺・柳島妙見堂 墨田区業平5-7-7 HP

 法性寺は、真間山弘法寺の旧末寺です。
 法性寺境内に妙見堂があり、北極星を神格化した妙見大菩薩が祀られています。
 葛飾北斎をはじめ、江戸庶民の信仰を集めていました。
 法性寺の北側には「橋本」などの料理茶屋が並び、船で来る人も多く賑わいました。
 現在は、本堂をはじめ庫裡等は近代建築となっています。

「江戸名所図会 柳嶋妙見堂」

 法性寺の境内に、妙見堂が描かれています。
 遠景に「秩父山」が見えます。

  

「江戸切絵図」

 柳島橋と妙見堂が見えます。

  

「絵本江戸土産 柳嶋妙見の社」(広重)

 柳島橋、料亭橋本屋、妙見堂が見えます。

  

「絵本江戸土産 妙見の松」(広重)

 妙見の松として、影向松が描かれています。
 白蛇の絵馬が奉納されています。

  

「名所江戸百景 柳しま」(広重)

 柳島橋の袂に料亭橋本屋が見えます。左手の建物が妙見堂です。

  

「江戸高名会亭尽 柳嶋之図」(広重)

 料亭橋本と、その奥に妙見堂が見えます。柳島橋がその奥に見えます。

  

「江戸名勝図会 柳島妙見」(2代広重)

 影向松が見えます。根元には絵馬が奉納されています。

  

「東都名所 柳島妙見堂」(一寿斎芳員)

 柳島橋を渡った右手に料亭橋本屋、左手に妙見堂が見えます。

  

「江戸名所道戯尽 三十三 柳島妙見の景」(歌川広景)

 料亭橋本の船着場の光景です。
 船着場から上がろうとした女性客が転んで、隣の汚穢舟へ転げ落ちています。
 船頭は鼻をつまんでいます。
 「橋本」は高級料亭だったので、下肥は高く買い取られていたのでしょう。

  

「柳島日没」(小林清親)

 料亭橋本が見えます。木の蔭に妙見堂が見えます。

  

「柳島妙見」(井上安治)

  

「江戸の今昔」(歌川広重 湯島写真場 昭和7年)

 五世歌川広重が柳島妙見堂を評しています。
 「震災の為、昔日の観なし。」
 「橋本」の資料が掲載されています。
 来客に配っていた広告札が掲載されています。蜀山人(大田南畝)のコメントです。

   

<石標「北辰妙見大菩薩」と門前>

 道標をかねて浅草通りに面して立てられていたようです。
 石標「北辰妙見大菩薩」
 右側面「妙見山法性寺」
 左側面に「宝暦2壬申6月15日」とあります。

     

     

<葛飾北斎辰政翁顕彰碑>

 2006(平成18)年4月の建立です。

    

<葛飾北斎翁描 柳嶋妙見山関係の絵の中から>

   

 「1785〜87 26歳〜28歳 春朗期 
  風流東都方角 柳嶋妙見堂
  (ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館蔵)」

  

 「1801〜05 42歳〜46歳 画狂老人北斎期
  妙見宮
  東京国立博物館蔵 
  1. 妙見松(一木六名の松)
  2. 御手水の上 手拭い
  3. 白蛇の絵馬」

  

 「亀毛蛇足」の印
  當山安置「妙見塚」の足元には、気・血・水・循環旺盛の亀と
  心身柔軟の白蛇をふまえています。
  (1835年54歳  門人北明に譲る)」

  

 「1843年 84歳 画狂老人卍筆期
  文昌星(北斗星)
  北斎美術館蔵」

  

 北斎は柳嶋の妙見さまを篤く信仰し南無妙法蓮華経を受持読誦、六番神呪を唱えながら歩く等
 神佛えの純粋な信と行の心をもつ世界的人物でもあった(住職日意記)

<柳島妙見堂>

 百度石があります。

    

<初代歌川豊国筆塚(断片)>

(説明板)
「墨田区登録有形文化財
 初代歌川豊国筆塚(断片)  所在地 墨田区業平五丁目七番七号 法性寺
 初代歌川豊国(一七六九〜一八二五)は、江戸時代後期に活躍し、歌川派を浮世絵界最大の一派に成長させる基盤を作った人物です。豊国は江戸芝神明前に生まれ、俗名は倉橋熊吉、父倉橋熊五郎は人形作りの職人でした。そのつながりから浮世絵の世界に入ったのが十四、五歳の頃と伝えられ、歌川豊春の門人となりました。雅号は一陽斎で、役者絵と美人画において新境地を拓き、門人には初代国貞(三代豊国)、国安、国芳をはじめ多数ありました。
 この石碑は、豊国の三回忌を経た文政十一年(一八二八)に初代豊国の門人達と地本屋仲間、団扇屋仲間により建てられました。碑に記される内容は、現在も豊国の伝記の基本資料として位置づけられるものです。碑文には、この碑が豊国の遺筆数百枝を埋めた上に建てられていることが記されています。碑の撰文は狂歌堂真顔(碑では狂歌堂四方真顔)、書と篆額は山東京山(山東庵樵者京山)、碑刻は窪世祥が受け持ちました。失われた原文は飯島虚心『浮世絵師歌川列伝』などにより知ることができ、初代豊国の業績や、絵師と文人との交流を知る手がかりとしても貴重な内容を伝えてくれます。
 当初は境内の松の奥、墓域の側にありましたが、関東大震災で複数に損壊した後失われ、現存するのはここで見られる断片のみです。
  平成二十五年九月  墨田区教育委員会」

    

<近松門左衛門碑>

 平成18(2006)年の建立です。近松門左衛門供養碑断片が別途保存されています。

  

<桂家元 故六世文治之碑>

 1915(大正4)年7月建立。

  

<小蓮遺愛之碑>

  

<えい髪塚>

  

<栄松庵一鶴の句碑>

 「豊かさや〜」

  

<境内その他石碑>

 辞世句碑など2基。

    

 連なる4基
 「桜田左交辞世句碑 花清し散ても浮む水の上」
 「い組 涼しさや〜」
 「宝田寿助辞世歌碑 それ辞世〜」
 「夢さめて〜」

  

     

 右手手前の修復された石碑は個人の碑でしょうか。

  

<昔ばなし柳塚>

  

(説明板)
「昔ばなし柳塚  所在 墨田区業平五丁目七番 法性寺内
 この石碑は落語界の一派、柳派の記念碑と考えられます。剥落が激しいため建立年代や人名などが読み取りにくい部分が多いですが、社長・頭取・監査・会計等の役職名が記されています。
 江戸時代、睦会と称して運営されていた落語は、明治十七年(一八八四)三遊派・柳派に分裂して覇を競うようになりました。明治二十二年(一八八九)には三遊派の記念碑「三遊塚」が区内の木母寺に建立されています。
 やがて大正六年(一九一七)になって、寄席が会社組織となり、三○○人余りの芸人が月給制度の下に統一されたため、派閥は解消されましたが、統一に反対する一五○人もの芸人が睦会を結成して対峙しました。
  平成一三年三月  墨田区教育委員会」

  

 (参考)木母寺の三遊塚
   三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治二十二年に建てた碑です。
   題字は山岡鉄舟。銘文は高橋泥舟の書です。

    

<地蔵>

  

<風也坊秋香の句碑>

  

<石碑>

  

<馬頭観世音菩薩>

  

<昇得弁財天>

  


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