Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 ○ 堀切の花菖蒲
 ○ 堀切菖蒲園


堀切の花菖蒲

 堀切は綾瀬川の支流が流れ、花菖蒲の栽培に適した湿地帯でした。
 多種多様な花菖蒲が咲き誇り、多くの江戸市民が舟や駕籠で遊覧に訪れました。
 堀切という地名は、葛西氏の一族の城跡という説があります。

「江戸切絵図」

 「堀切村百姓伊右エ門花菖蒲之名所ナリ」とあります。

  
 

「江戸名所図会 無題」

 「其三 関屋天満宮」と「渋江 西光寺 清重稲荷」の間に描かれている「無題」の挿絵です。
 葛西は四季の花を江戸に出荷し花卉栽培の盛んな土地であったことが記されています。
 描かれた場所はわかりませんが挿絵には、「葛西の辺は人家の後園あるハ 圃畦にも悉く四季の草花を栽並はべるかゆゑに芳香常に馥郁たり 土人開花の時を待得てこれを刈取 大江戸の市街なる花戸に出して鬻く事もっとも夥し」とあります。
 左下には切花が蓆で覆われています。これから出荷するのか大八車に積んで行商に出るのでしょう。

 堀切では、畑での花栽培が盛んでした。
 市場に出荷するほか、大八車に花を積んで行商で売りにも行きました。
 江戸市中の人々は1日、15日は神棚に新しい花をお供えする習慣があり、それを目当にしていたようです。

 東京都立日比谷公園にある日比谷花壇も、明治5(1872)年、葛飾区堀切で創業し、花栽培、花売りをしていました。
 昭和25(1950年に東京都知事より要請を受けて日比谷公園に出店しています。(日比谷花壇 HP

  
 

「絵本江戸土産 堀切の里 花菖蒲」(広重)

 挿絵には「綾瀬川の東にあり 数万株の花菖蒲その色更に数を知らす 眺望類ひあらされば毎年卯月下浣より皐月に至りて遠きを厭わす船に乗りあんだに駕して都下の美女競うときハいつれか花と見紛ふはかり水陸の遊観なり」とあります。

  
 

「名所江戸百景 堀切の花菖蒲」(広重)

 左手の遠景には、お堂とその後ろに富士山(?)が見えます。

   
 

「東都堀切花菖蒲」(三代豊国、二代広重 安政4(1857)年 東京都立図書館)

  
 

「江戸名所百人美女 堀切菖蒲」(豊国、国久 安政4(1857)年)

 美人の足元が草履です。舟か駕籠で訪れたのでしょう。
 こま絵には、水路に石橋が架かり、築山の上に茶屋が見えます。

   
 

「東都三十六景 堀切花菖蒲」(二代広重 文久2(1862)年)

 築山の頂に設けられた茶屋から、眼下の花菖蒲を観賞しています。

  
 

「江戸自慢三十六興 堀きり花菖蒲」(二代広重、三代豊国 元冶元(1864)年)

 通路側に品種名を示す名札が立てられています。現代と同じです。

  
 

「三十六花撰 東京堀切花菖蒲」(二代広重 慶応2(1866)年 東京都立図書館)

  
 

「全盛花菖蒲之図」(三代豊国)

 新吉原は、桜が散るとぼたんを植え、次は菖蒲、秋には紅葉を移植し、人工的な花見の名所でした。
 菖蒲が植えられた仲之町が描かれています。菖蒲は堀切からの取り寄せでしょうか。

  
 

「千代田の大奥 花菖蒲」(楊洲周延 明治29年)

 大奥での花菖蒲の観賞が描かれています。
 現在も、二の丸庭園で一般観覧可能です。

   
 

【明治時代】
「東京名所四十八景 堀切しよふ婦五月雨」(昇斉一景 明治4(1871)年 都立図書館)

 菖蒲が咲いている脇では田植です。
 江戸時代の堀切村は、みな花作りを家業としていたので、明治に入って米作りもするようになったということですかね。

  
 

「東京開化三十六景 堀切の花菖蒲」(三代広重)

  
 

「美人堀切の遊覧」(楊斎延一 明治27(1894)年)

  
 

「堀切花菖蒲」(小林清親 明治12(1879)年)

 小高園が描かれています。

  
 

「堀切」(井上安治)

  
 

「堀切之菖蒲」(東京風景 小川一真出版部 明治44年4月)

 明治の堀切の花菖蒲の光景です。

  


堀切菖蒲園 葛飾区堀切2-19-1

 堀切菖蒲園は、葛飾区堀切に、今日も残る唯一の花菖蒲園です。

    

(説明板)
「「堀切菖蒲園」の歴史
 東京の東部低地に位置する葛飾区一帯は、江戸時代に葛西三万石ともいわれる水田地帯で、稲作のほかに野菜類や花卉(草花)の栽培が盛んな地域でした。寛政6年(1794)の地誌『四神地名録』に「いろいろの草花かぎりもなき事」という記載がみられます。
 堀切への花菖蒲伝来については、室町時代の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じて、奥州郡山の安積沼から持ち込んだのが起源という伝承があります。16世紀後半の『小田原衆所領役帳』に「窪寺」という名は見られますが、詳細は不明です。
 記録に残る花菖蒲栽培の始まりは、小高園の祖となる伊左衛門です。伊左衛門は父子二代にわたり、享和・文化年間(1801〜1818)頃から各地の花菖蒲を収集したほか、花菖蒲愛好家で知られる旗本の松平左金吾定朝(菖翁)や、万年録三郎からも品種を入手し繁殖に努めました。
 天保年間(1830〜1844)になると、小高家の花菖蒲は諸大名や旗本の間で評判となります。嘉永元年(1848)には十二代将軍家慶と子の家定が鷹狩の際に立ち寄ったほか、尾張藩主徳川斉荘からは「日本一菖蒲」の画賛が贈られました。
 また、初代広重などの絵師が堀切の花菖蒲を描いていることや、弘化3年(1846)に、「草花より穀物の栽培に専念すること、見物客に飲食物の提供をしない」という誓約書を代官所へ提出していることから、文人・墨客や江戸の庶民も堀切に押し寄せていたことがうかがえます。
 明治維新を迎えると、幕末に日本で最初の観光花菖蒲園として開園した小高園・武蔵園に加えて、吉野園・堀切園・観花園が明治時代後期までに相次いで開園します。さらに昭和初期にかけて、四ツ木園・菖香園・(山岸)菖蒲園が開園、花菖蒲栽培農家も多数存在しました。昭和5年(1930)の日本花菖蒲協会設立時には、堀切の花菖蒲園関係者が会員の一割を占めていました。
 しかし、都市化の進行に伴う水質汚染と第二次世界大戦下の影響が、花菖蒲園に及ぶようになります。昭和10年代にかけて武蔵園・吉野園などが閉園、戦争が激化すると、食糧難解消のために花菖蒲田は水田となっていきました。昭和17年(1942)の小高園の閉園により、堀切の花菖蒲栽培は一旦途絶えました。
 終戦後、唯一復興した花菖蒲園が堀切園です。疎開させていた花菖蒲の株を植え戻し、昭和28年(1953)に有限会社堀切菖蒲園と名を改め営業を再開しました。その後、昭和34年(1959)に都が買収、翌年に都立堀切菖蒲園が誕生しました。当初は有料でしたが、昭和47年(1972)からは無料化されます。
 そして昭和50年(1975)4月に葛飾区に移管、昭和52年(1977)には、葛飾区指定名勝に指定され、今日に至ります。現在、園内では役二百種六千株に及ぶ花菖蒲が栽培されており、その中には菖翁由来の菖翁花も含まれます。
  平成30年3月  葛飾区教育委員会」

   

(説明板)
「葛飾区指定名勝
  堀切菖蒲園
    所在地 葛飾区堀切二丁目19番1号
    指定年月日 昭和52年(1977)3月19日
 この地にはじめて花菖蒲が伝来したのはいつの頃か明らかではありませんが、一説によると、室町時代堀切村の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じて、奥州郡山の安積沼から花菖蒲を取り寄せて培養させたのが始まりとも、文化年間(1804〜1817)堀切村の百姓伊左衛門(小高氏)が花菖蒲に興味を持ち、本所の旗本万年録三郎から「十二一重」を、花菖蒲の愛好家松平左金吾(菖翁)から「羽衣」「立田川」などの品種を乞い受け繁殖させたのが始まりとも言われています。
 堀切で最初の菖蒲園は、江戸時代末期に開園した小高園で、明治に入ると武蔵園・吉野園・堀切園・観花園などの菖蒲園が開園しています。この堀切菖蒲園は堀切園の跡です。
 堀切の花菖蒲の様子は「江戸百景」に数えられ、鈴木春信・安藤広重などの著名な浮世絵にも描かれています。また明治には『東京遊行記(明治39)』『東京近郊名所図会(明治43)』などに次々と堀切の菖蒲園が紹介され、全盛期は明治中期から大正末期頃だと思われます。
 園内では、「十二単衣」「酔美人」「霓裳羽衣」など希少な品種も多くみられます。」
  葛飾区教育委員会」

  
 

<新東京名勝選外>

 「新東京名勝 選外十六景
  堀切の花菖蒲」

 昭和7(1932)年に報知新聞社が「新東京八名勝」を選定し、その選に漏れた十六名勝の記念碑です。

 【新東京八名勝】
 池上本門寺 西新井大師 北品川天王社 日暮里諏訪神社 赤塚の松月院 目黒の祐天寺 洗足池 亀戸天神
 【新東京一六景】
 雑司ヶ谷鬼子母神の森 大井の大仏 水元の水郷 奥沢の九品仏 新井薬師 柴又帝釈天 目黒不動 篠崎堤の桜 堀切の花菖蒲 善養寺の松 哲学堂 三宝寺池 大宮八幡 滝野川の渓流 丸子多摩川の丘 豊島園

  
 

<堀切菖蒲園 花菖蒲園発祥の地(静観亭)>

  
 

【園内】

 菖蒲園の西側は綾瀬川・荒川、高速道路です。

    

    
 

【花菖蒲】

<堀切三姉妹/堀切の夢>

 「堀切の祭」「堀切の舞」「堀切の君」。
 令和4(2022)年に新花登録です。

 「堀切の夢」
 平成2(1990)年に新花登録です。

    

<菖翁花>

(説明板)
「菖翁花(しょうおうか)
 江戸時代後期、花菖蒲の発展に大きな功績を残したのは、旗本、松平左金吾定朝です。自らを「菖翁」と名乗り、六十年にわたって花菖蒲の改良と新品種の作出に情熱を傾けました。菖翁により作出された花を「菖翁花」といいます。安政三年には、菖翁花の集大成「花菖蒲花銘」が執筆され、百二十種に及ぶ品種が挙げられましたが、現在は十七種前後が現存するのみとなっています。
 堀切でまず花菖蒲を栽培し、江戸末期から花菖蒲園として名を馳せたのは後の小高園の祖となる伊左衛門です。文政初期には、伊左衛門が菖翁から「宇宙」、「霓裳羽衣」などの品種を譲り受けて栽培し、繁殖を図りました。その後、菖翁花が小高園から堀切園や他の花菖蒲園に広まったと考えられています。
 堀切菖蒲園では、品種の保存と江戸情緒の創出に役立てるため、現在も菖翁花の名を引継ぐ、十種余りの花菖蒲の栽培管理を行っています。
(※1)小高園
 武蔵園と並ぶ、堀切における葉菖蒲の祖。明治以降は花菖蒲をアメリカに輸出する等、数多くの功績を残した。
(※2)堀切園
 現在の堀切菖蒲園の前身。終戦後、足立に疎開させていた花菖蒲を圃場に戻すことで、復興を果たした。」

  

<花菖蒲の系統/ハナショウブ、アヤメ、カキツバタの違い>

   
 

【歌碑/句碑】

<渡辺千秋の歌碑>

 明治35(1902)年に武蔵園に建てられ、変遷を経てここに移設されています。

(説明板)
「区登録有形文化財
  渡辺千秋の歌碑
  所在地 葛飾区堀切二丁目19番1号
  登録年月日 平成2年(1990)3月19日
 この碑には、明治から大正初期の宮内大臣、渡辺千秋が武蔵園に来遊して詠んだ和歌一首が刻まれています。

  ほりき里能のさとのあやめは老まつに
    ちよをちぎりてさ支さかかゆら舞

 渡辺千秋(1843?1921)は天保14年(1843)に信州高島藩士の子として生まれました。明治期に入ると鹿児島県令などを歴任したのち、明治25年(1892)内務次官となり、27年には貴族院議員に勅選され、さらに宮内大臣に任命されたのは明治43年(1910)のことでした。こうして千秋は政府高官として活躍しましたが、その一方『千秋歌集』を著すなど歌人としても著名で、彼の多彩な才能がしのばれます。
 なお、この碑はもともと明治35年(1902)武蔵園主吉木磯吉によって同園内に建てられたものですが、武蔵園が廃園となり、幾多の変遷を経て、平成24年(2012)奥村敞氏から区へ寄贈され、現在に至っています。
  葛飾区教育委員会」

     
 

<松野自得句碑>

 「石 長野県産霧ヶ峯 句 松野自得」
 「天日に菖蒲の花の白まぶし 自得」

    
 

<鳴鶴堂まつ雄句碑>

 「花びらに雲をささえて朝菖蒲」
 裏に「明治庚戌初夏」とあり、明治43(1910)年に「五老井社中」による建立です。

    
 

<中村汀女句碑>

 「花菖蒲かがやく雨の走るなり」

(碑文)
 「花菖蒲かがやく雨の走るなり
 中村汀女先生の作 昭和五十九年六月二十日 当堀切菖蒲園に遊びこの句をよんだ
 先生は明治三十三年熊本に生まれ高浜虚子に師事 昭和二十二年俳誌「風花」を創立主宰し今日に至る
 昭和四十七年勲四等宝冠賞を受け、五十五に文化功労者となり五十九年には日本芸術院賞を授けらる
 句集「紅梅」ほか多数の著書がある
   昭和六十年六月  葛飾区長 小日向毅夫」

    
 

<石祠>

 石祠があります。

    
 

<手水場>

   
 

<休憩所>

 休憩所には、「浮世絵に見る堀切の花菖蒲」「古絵葉書写真」「堀切地区と花菖蒲園の歴史」「花菖蒲番付」が掲示されています。

「浮世絵に見る堀切の花菖蒲」

   

「堀切菖蒲園等古絵葉書写真」
 「堀切園」「武蔵園」「吉野園」「小高園」「観花園」」

  

「堀切地区と花菖蒲園の歴史」「花菖蒲番付」

  

    


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