大同年間(806〜810年)に弘法大師空海を開山とし創建されました。
太田道灌は、長禄元(1457)年、江戸城を築き、この地に伽藍を建立し「金華山普門院大円寺と号しました。
太田道灌の持仏と伝わる「聖観音像」を安置しています。
「江戸六地蔵 第一番」
「江戸新撰三十三観音霊場 三十一番」
「東海三十三観音霊場 二十一番」
「東海七福神(毘沙門天)」
「江戸名所図会 品川寺」
挿絵手前は東海道です。江戸六地蔵の一つである地蔵菩薩が街道を向いて鎮座しています。
現在の地蔵尊は笠をかぶっていませんが、挿絵の地蔵尊は笠をかぶっています。
夏目漱石は幼少の頃、内藤新宿の太宗寺の江戸六地蔵に笠に自分の頭が触れるまでよじ登って、錫杖の柄へつかまったりして遊んでいます。
映画「セーラー服と機関銃」で、薬師丸ひろ子も地蔵に登っています。
子どもが遊んで次第に壊れたとか、酔っ払いがよじ登って笠を壊してしまったのでしょうかね。
<参道入口>
「しながわ百景
品川寺 品川寺の江戸六地蔵 品川寺の梵鐘
昭和62年 品川区 31 32 33」
<溺死者供養之塚>
明治29(1896)年銘の「溺死者供養之塚」です。
<句碑>
6人の句が刻まれています。
<江戸六地蔵>
品川寺の地蔵菩薩は一番古く、宝永5(1706)年に造立されたものです。
品川寺の地蔵菩薩は笠をかぶっていません(江戸名所図会の挿絵では笠をかぶっています)。
「都重宝 銅造地蔵菩薩坐像」
「昭和四十五年八月三日指定
昭和四十七年三月三十日建設
東京都教育委員会」
石階段があり、地蔵菩薩に間近に近寄ることができます。
(説明板)
「東京都指定有形文化財(彫刻)
銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵の一)
所在地 品川区南品川三ー五一ー七
指定 大正一○年三月
江戸六地蔵の由来は、その一つ太宗寺の像内にあった刊本『江戸六地蔵建立之略縁起』によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永三年(一七○六)造立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六ヶ所に地蔵菩薩をそれぞれ一躯ずつ造立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守藤原正義によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で取り壊され、五躯が残っています。
六地蔵のうち、海照山品川寺の地蔵は一番古く、宝永五年(一七○七)に造立されたものです。像高は、現存するものの中で一番大きく二七五cmあり、かつては鍍金が施されていました。
江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。
平成二三年三月 建設 東京都教育委員会」
<山門/宝篋印塔(亀趺)>
山門前に台石が亀趺の宝篋印塔があります。
<稲荷堂>
<イチョウ> 品川区天然記念物
気根が見事なイチョウです。
(説明板)
「品川区指定天然記念物
品川寺のイチョウ
所在 南品川三丁目五番十七号 品川寺
指定 昭和五十三年二月十四日(天然記念物第二号)
本樹は幹回り五・三五メートル、樹高二十五メートル、推定樹齢約六百年という古木であるが、整然とした樹姿をみせ、その樹勢も極めて旺盛であり、幹や大枝からは、多くの乳が垂れている。
本区内の数あるイチョウのなかでも、ひときわ目立つ存在であり、かなり離れた地点からも眺めることができ、壮観である。
また約六百年という樹齢は 本寺が歴史の古い寺であることを実証するものの1つである。
平成十五年三月三十一日 品川区教育委員会」
<道祖神/庚申塔>
イチョウの木の前に、道祖神と庚申塔が二基並んでいます。
・寛政七(1795)年銘庚申塔 三猿が陽刻されています。
・延寳八(1680)年銘庚申塔 自然石の庚申塔。台石に三猿と二鶏。両側面に蓮華蓮葉の浮彫です。
<鐘楼/梵鐘>
梵鐘がたどった経緯は、寺HPに詳細に記載されています。
<高浜虚子句碑>
鐘楼の入口に 高浜虚子の句碑があります。
句碑は、鐘の帰還60周年を記念して平成2(1990)年に建てられました。
昭和5(1930)年5月5日、スイスのジュネーブ「アリアナ美術館」から帰還した鐘の帰還式が品川寺で行われ、
住職の友人である高浜虚子は帰還式に出席して、この句を詠みました。
毎年、5月5日には「鐘供養俳句の会」が行なわれています。
「座について供養の鐘を見上げけり」
<ジュネーブ平和通り命名記念碑>
記念碑と燈籠型石碑があります。
昭和63(1988)年と平成2(1990)年に、マリー・テレーズ・クレリ「アリアナ美術館館長」が品川寺に来山されました。
平成3(1991)年9月8日にアリアナ美術館において、新梵鐘鐘楼落成式が行われました。(詳細は寺HPに記載)
「Geneve Avenue de la Pix
8 septembre 1991」
(正面) 「為 マリーテェレーズクルリー 大姉荘厳浄土也」
(左側面)「感謝ジュネーヴ品川友好の母 平成十二年十月
<十三之塔/金王七福神>
鐘楼の周りに十三之塔があり、金王七福神が祀られています。
「大黒天」「布袋尊」「恵比須」「寿老人」「福禄寿」「毘沙門天」「弁財天」
<英霊堂>
鐘楼の先に英霊堂がありますが近寄れません。
聖観音菩薩と、その前に、軍馬・軍犬・軍鳩が祀られています。
<弁天堂>
弁天像は、琵琶を持たず6本手です。
<修行大師像>
<役の行者>
<社務所>
社務所には東海三十三所観世音霊場の札所板が掲示されています。
不詳の石碑があります。
<本堂>
立場茶屋「幕府御用宿 釜屋跡」に現在はガーデンホーム南品川が建っており、
その角地に説明板があります。
(説明板)
「幕府御用宿 釜屋跡
南品川 には旅人が休息をする「建場茶屋」が、数多くありました。江戸に最も近い品川宿は、江戸を立つ旅人達を見送る為の宴会の場であったり、また参勤で江戸に入る大名が、旅装束から江戸屋敷に入る支度を整える場所でもあり、大変賑わいました。
中でも品川寺 門前の「釜屋」は、海をのぞむ風光明媚な茶屋であり諸大名にも愛され、料理を供するようにもなりました。
慶応三年(一八六七)には「幕府御用宿」として、多くの幕臣達が東海道を上下する為に利用しております。
同年十月二十一日、新選組副長・土方歳三と副長助勤・井上源三郎が、新入隊士や故郷の支援者達、計三十一名で休息した記録が残されております。
また、慶応四年正月十二日〜二十三日、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻った新選組の「品川屯所」となっておりました。
この品川の地で、幕末の風を感じて下されば幸いです。
(南品川宿釜屋よりの光景)
平成二十九年(二〇一七)九月吉日
青物横丁商店街振興組合
新選組研究家 汐海朱里 撰文」
「江戸名所図会 品川寺」
江戸名所図会の品川寺門前部分の抜粋拡大です。
木戸の門が見えるこちらが釜屋でしょうか?
「江戸名所図会 品川驛」
品川宿の賑わいが描かれていますが、どこを描いたのか定説はありません。
木戸の門のあるこの建物はどこでしょうかね。
挿絵には「品川も つれにめずらし かりのこえ 其角」とあります。
○保土ヶ谷宿の街道松 品川区南品川3-6-50
隣に「保土ヶ谷宿の街道松」が植えられています。
保土ヶ谷宿からの寄贈で、平成11(1999)年の植樹です。
(説明板)
「保土ヶ谷宿の街道松
この松は、東海道が取りもつ縁で四番目の宿場町、保土ヶ谷宿の「保土ヶ谷四○○倶楽部」から寄贈されたものです。
この松は、両宿の友好のシンボルとして三十年、五十年と地域の方々と共に大切に育ててまいります。
なお、この松の植樹にあたっては「ガーデンホーム南品川管理組合」の皆様のご理解とご尽力をいただきました。
品川宿にはこの他にも、東海道の宿場町から同様の趣旨で寄贈された街道松が植えられています。
平成十一年四月吉日 旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」