Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 四之橋と狐鰻(尾張屋藤兵衛)


○四之橋 港区南麻布3丁目〜港区白金1・3丁目

 玉川上水の余水に端を発し、内藤新宿から南流する川は、
 その名を渋谷川・古川・新堀川・赤羽川・金杉川と、地名に合わせて名前が変わります。
 「四之橋」は古川に架かる橋です。
 橋の西北角に土浦藩主土屋相模守の下屋敷があり「相模殿橋」とも呼ばれていました。
 現在、古川の上は首都高速2号目黒線に覆われています。

     

「昭和59年3月竣工」

  

(銘版)
「絵本江戸土産 麻布古川 相模殿橋 廣尾之原」(広重)

  

(銘版)
「四之橋の由来
 この橋は、高輪の葭見坂から麻布本村に向かう、古い街道すじにあったという伝承があるので、始めて架けられたのは、江戸時代よりも前のことであろう。江戸時代になって寛永七年(一六三○)に、幕府の薬草栽培所が麻布側の坂の西に設けられると、橋は御薬園橋と呼ばれるようになった。その後、薬園に五代将軍綱吉の別荘富士見御殿(白金御殿ともいう)が建設されることになって古川を改修したとき、元禄十二年(一六九九)に、一之橋から四番目の橋なので、四之橋と名づけたとされている。
なお橋の西北角に土浦藩主土屋相模守の下屋敷があったために、相模殿橋と呼ばれることもあった。」

  

<四の橋時計台広場> 港区白金3-1

 四の橋の南側にある時計台広場です。

  

<白金商店街> 港区白金1丁目・3丁目 HP

 四の橋から南側へ、白金商店街が続きます。

  

「名所江戸百景 広尾ふる川」(広重)
 古川に架かる「四之橋」の南側には、2階建の鰻屋「狐鰻」が描かれています。
 橋と狐鰻の間には、よしず張りの茶屋が見えます。
 古川の上流左手(渋谷川右岸)には、広尾原が描かれています。

   

「絵本江戸土産 麻布古川 相模殿橋 廣尾之原」(広重)
 挿絵には「江都第一の郊原にして人のよく知る所なり されば四時艸木の花更に人力を假らずといへども自然咲つづき月の夜しがら古の歌に見えたる武蔵野の気色はこれかとおもふばかり寂寥として餘情深し」とあります。

  

「江戸名所百人美女 ふる川」(豊国・国久)
 こま絵には、2階に赤い提灯がぶら下がり、1階の看板には「をはりや 蒲燒」とあり、鰻を焼いています。
 美女の視線の先の岡持ちには、赤文字で「さ賀ミみど〜 御蒲〜」と書かれた紙が挟まれており、
 狐鰻(尾張屋藤兵衛)の古川対岸にあった相模守下屋敷への鰻蒲焼の仕出しということがうかがえます。
 狐が美女に化けて鰻を食べようとしているのでしょうか。

   

「東都高名會席盡 尾藤 狐忠信」(三代豊国、広重)
 こま絵には、それぞれ「古川廣尾」「狐鰻」と記載され描かれています。
 役者絵は、狐鰻にかけて、狐が佐藤忠信に化けています。

   

「江戸名所図会 鷺森神明 西光寺 氷川明神」
 古川に架かる「相模殿橋」を渡り南へ進むと「鷺森神明」「西光寺」「氷川明神」とあります。
 「相模殿橋」手前(北側)には「明称寺」「薬園坂」が記されています。

   

<薬園坂> 港区南麻布3丁目

 薬園坂上から坂下方向の光景です。
 寛永7(1630)年に「四之橋」北側の坂の西側に江戸幕府の薬草園が設けられ、坂は「薬園坂」と呼ばれるようになりました。
 薬草園は貞享元(1684)年に小石川へ移転し、5代将軍・徳川綱吉の別邸となる麻布御殿が建てられました。
 その後、土浦藩主土屋相模守の下屋敷となりました。

  

「江戸名所図会 廣尾原」
 広尾原は、春には土筆が多く生えることから土筆が原(筑紫が原)とも呼ばれました。
 秋には芒の生い茂る野原で、娘さんが桔梗を摘んでいるようです。
 「江戸名所花暦」によると、広尾原は、道灌山、牛島とならび評される虫の音の名所としてもあげられています。
 また、江戸幕府の御鷹場でもありました。

  

「三十六花撰 東京 広尾原桔梗」(二代広重)
 秋の七草の一つである「桔梗」が描かれています。

  

「江戸切絵図」
 「四ノ橋」「土屋采女正」「御ヤクエンサカ」部分の抜粋と、橋の上流「廣尾原」部分の抜粋です。
 「四ノ橋」の脇には「相模殿橋ト云」とも記されています。

   

「現在の地図」
 現在地は「四之橋」南詰で、上が西となっています。

  

<狐しるこ/狐鰻(尾張屋藤兵衛)>

 四之橋のたもとで、尾張屋藤兵衛がしるこ屋を商っていました。
 狐が人に化けて買いに来たので、それほどまでに美味いと「狐しるこ」と評判となり大いに繁盛しました。
 尾張屋はこれを元手に京橋三十間堀に移転しました(麻布十番商店街HPを参照しました)。
 「狐しるこ」の後に営業を始めた鰻屋は狐を踏襲して「狐鰻」を商い、同じく尾張屋藤兵衛と号しました。
 「狐鰻」(尾張屋藤兵衛)は多くの浮世絵や地誌に掲載(宣伝)されました。
 木戸孝允の日記にも「狐鰻」は登場し、井上馨、伊藤博文と会食した記述が残っています。

「江戸買物独案内」(文政7(1824)年 国立国会図書館蔵)
 「鰻蒲焼」の項に「麻布さかミどの橋 蒲焼 尾張屋藤兵衛」と掲載されています。

  

「江戸名物酒飯手引草」(嘉永元(1848)年 国立国会図書館蔵)
 「江戸前 麻布相模殿橋 御蒲焼 尾張屋藤兵衛」と掲載されています。 

  

「江戸前大蒲焼番附」(嘉永5(1852)年 都立図書館蔵)
 「世話役 麻布 狐鰻」と掲載されています。

   

「江都自慢」(年不詳 都立図書館蔵)
 「古川 狐うなぎ」が掲載されています。

   


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