東本願寺は、浅草東御門跡(あさくさひがしごもんぜき)と呼ばれていました。
「門跡」(もんぜき)とは、皇族・公家が住職を務める寺院のことです。
正徳元(1711)年から朝鮮通信使の宿館を務めました。築地本願寺と並ぶ名刹として繁栄しました。
「江戸名所図会 東本願寺」
かつては広大な寺域だったことがうかがえます。
「江戸名所図会 報御講」
挿絵には「平等に わたせるはしや お霜月 西山宗因」とあります。
報恩講がお見合いの場、男女の出会いの場となっていました。
男性は「肩衣」を着て、女性は揚帽子に振袖で参詣します。
揚帽子に振袖の年頃のお嬢さんが多く見えます。見守っている両親も見えます。
東本願寺HPより川柳を一部引用します。
「いづもより御こうははでなゑんむすび」
「いい天気婿を見つけに七日でる」
「箱入りの出歩く御講日和かな」
「御こうへはにうわな顔てつれて行く」
「御講で見そめ御忌で逢ふ」
「恋御宗旨がみんな指さすいい娘」
「来る年も御講に目たつ縁遠さ」
「四、五年も御講で目立つ縁遠さ」
「東都歳事記 東本願寺」
堂内も広大です。
「江戸名所百人美女 東本願寺」(豊国・国久)
揚帽子に、水藻の間を泳ぐ金魚が描かれた振袖を着た、お見合いの装いのお嬢様が描かれています。
「絵本江戸土産 浅草御門跡」(広重)
挿絵には、
「観音より西の方にあり これを東本願寺といふ 開山教如上人なり 十一月廿二日より廿八日まで開山忌
また御講といいて参詣群衆おびただし 当御堂の大いなることは世の人の知る処東都第一の大御堂なり」
とあります。
「江戸名所 浅草東御門跡」(広重)
七五三の宮参りが描かれています。
「七五三」の祝いは、天和元(1681)年11月15日に徳松(綱吉嫡男)の健康を願ったのが始まりだとされています。
「浄徳院殿(綱吉嫡男徳松)墓碑」はこちらで記載。
「富嶽三十六景 東都浅草本願寺」(北斎)
近景に東本願寺本堂の大屋根の側面。遠景に富士。
屋根の上には職人たちがいます。凧が舞いあがっています。
「浅草東門跡」(井上安治)
関東大震災で焼失前の大伽藍が描かれています。
「最新東京名所写真帖 東本願寺」(小島又市 明治42(1909)年)
明治の頃の本堂です。
右下の屋根に架かる梯子が小さく見えます。
<本堂>
巨大な本堂は、1939(昭和14)年の建造。
※車椅子用エレベーター
本堂向かって左に、車椅子用エレベーターがあります。
<親鸞聖人像>
<蓮如上人像>
<憲政碑>
大きな憲政碑があります。
<朝鮮通信使/銅鐘>
朝鮮通信使と銅鐘の説明板があります。
東本願寺は、朝鮮通信使の宿所として利用されました。
<パンフレット>
牛久大仏は東本願寺の造立で、パンフレットにも掲載されています。