(説明板)
「江戸の町 榛馬場跡 18
この辺りには、榛馬場と呼ばれた馬場がありました。本所に住む武士の弓馬の稽古のために設けられ、周りを囲む土手に大きな榛(カバノキ科の落葉高木)があったところから、そう呼ばれたようです。
勝海舟の父小吉の著書「夢酔独言」の中にも、子どものころの回想として、榛馬場のことが出ています。馬場の傍らに祀られていたのが、この榛稲荷神社です。
天保八年(一八三七)に亀沢町の若者が奉納した木造朱塗の奉紙立が、震災、戦災を逃れて今でも保存されています。
葛飾北斎も娘のお栄といっしょに稲荷神社脇に住んでいたことがあります。
奉紙立=正式の食事の時、膳の盛り物の周囲に、紙をさまざまな形に折って立てる器 墨田区」
「江戸切絵図」
御竹蔵の南東端に「馬場」の記載が見えます。
(説明板)
「葛飾北斎住居跡 所在地 墨田区両国四丁目三十四番付近
この辺りには、江戸時代に武士が馬術を訓練するための馬場が設けられていました。東西約百八十五m、南北約二十二mの広さがあり、馬場を囲む土手に大きな榛があったので、「榛馬場」と呼ばれました。馬場に祀られていたのが「榛稲荷神社」です。
本所(現在の墨田区南部)に生まれた絵師葛飾北斎は、この稲荷神社のすぐ近くに住んでいたことがありました。北斎は九十歳で没するまで常に新しい技法を試み、「富嶽三十六景」に代表される錦絵だけではなく、肉筆画も手がけ、数多くの作品を生み出しました。
榛馬場の辺りに住んでいた当時の様子を伝えるのが、「北斎仮宅写生」(露木為一筆)です。絵を描く老いた北斎と娘の阿栄が描かれています。阿栄も優れた絵師でした。その暮らしぶりを飯島虚心は「蜜柑箱を少しく高く釘づけになして、中には、日蓮の像を安置せり。火鉢の傍には、佐倉炭の俵、土産物の桜餅の籠、鮓の竹の皮など、取ちらし、物置と掃溜と、一様なるが如し」(「葛飾北斎伝」)と記しています。北斎がこの地に暮らしたのは天保末年頃(一八四十年頃)で、八十歳を越えていたと思われますが、絵を描くこと以外は気にも留めないような暮らしぶりが見てとれます。
北斎は生涯で九十回以上も転居を繰り返したとされていますが、居所のすべてが正確にわかっているわけではありません。榛馬場の北斎住居跡は、ある程度場所の特定ができ、絵画資料も伴うものとして貴重な例です。
また、幕末明治期に活躍した政治家勝海舟もこの近くで生まれ育ちました。海舟の父、勝小吉の自伝「夢酔独言」の中にも、榛稲荷神社についての思い出が記されています。
「北斎仮宅写生」(国立国会図書館所蔵)
平成二十一年三月 墨田区教育委員会」
<社号標/縁起書>
「縁起書
古く此の地一帯を榛馬場と稱し此の神祠を榛稲荷社と稱し奉れり。(以下略)」
<手水舎/石灯籠>
<拝殿>
<神馬>
榛稲荷神社が馬にゆかりがあるということで、神馬のプレートが奉納されています。