「江戸名所図会 羽田弁財天社」
沖合移転前の羽田空港の敷地は、かつては羽田浦(その後開拓により鈴木新田)といわれていた一画です。
江戸名所図会によると、羽田浦の洲崎は扇型に広がっていたため「扇ヶ浜」と呼ばれ、扇型の要の位置に当たる出洲は「要島」と呼ばれていました。
要島にあったのが要島弁財天社(通称:羽田弁財天社)です。
羽田弁財天社と常夜灯が見えます。
「絵本江戸土産 羽田弁財天社」(広重)
挿絵には「本名を要嶋といふ 俗に羽田の弁天といへり 相州榎嶌本宮と同躰にして 弘法大師の作なり 宝永八年四月 海誉上人の勧請といふ」とあります。
「江戸近郊八景之内 羽根田落雁」(広重 天保9(1838)年)
羽田弁財天と、舞い降りる雁の群れが描かれています。
「江戸名勝図会 羽田弁天」(二代広重)
常夜灯がかなり遠くに描かれています。
玉川弁財天は、元は要島に所在していたことから、要島弁財天といい、羽田弁財天と通称されていました。
江の島の岩屋に鎮座する弁財天を勧請しています。
鎮座地が鈴木新田だったため、GHQにより退去を強制され、昭和20(1945)年に、水神社のあった現在地に遷座しています。
龍王院の境外社となっています。
<水神社>
羽田神社の兼務社となっています。
<弁天池>
弁天池に石祠があります。
<玉川弁財天>