○ 弁天橋
○ 羽田の漁業碑
○ 案内図/鉄道トンネル
○ 五十間鼻無縁仏堂
○ 福守稲荷神社
海老取川にかかる弁天橋です。
<海苔養殖の工程>
欄干には海苔の養殖の作業工程がレリーフで飾られています。
「ひび作り」「ひび建て」「海苔取り」「海苔付け」
<武蔵野路六郷コース> 大田区羽田6-9
海老取川右岸に「武蔵野路六郷コース」の標柱があります。
堤防沿に散策路が続きます。
堤防から下に降りる階段が柵に囲まれていて、その中にあります。
羽田は、潮水と真水が混じり合う汽水で、多くの魚介類が生息する魚場でした。
水質改善により現在はシジミ漁が行われているようです。
(碑文)
「羽田の漁業
羽田浦の漁業は、約八三○年前の平治年間、羽田に七人の落人が住みついたときから始まったと言われている。
江戸時代になってから、漁船、漁師は、参勤交代のときに六郷川(多摩川の河口部)の船橋や補役として、また大阪城夏の陣には軍船として使用された。
この羽田浦は、魚貝類の大切な栄養源となる淡水が多摩川より大量に流れ出るため、その周辺は絶好の漁場であった。
この地で水揚げされた魚貝類の鮮度は高く、徳川将軍家に献上したり、江戸の町に運んでいた事実が伝えられている。特に、羽田洲は、「干潟広大にして諸貝を産し、中でも蛤貝を名産とし、汐吹貝、赤貝多し」と『羽田史誌』に記されており、古くから多くの貝類が漁獲されていた。
かつて江戸湾内の優良漁場であった羽田浦周辺も、昭和三○年代から始まる東京港の埋め立てと航路づくりのため、昭和三七年に海苔漁場の漁業権の放棄が余儀なくされた。
その後、空港拡張により浅瀬漁場は減少し、以前のような漁村としての姿は薄れつつあるなかで、多摩川河口の船溜りは、昔をしのばせる貴重な場所となっている。
大田区」
五十間鼻に掲示の地図です。
「赤レンガの堤防と五十間鼻」の案内文が記載されています。
(案内文)
「赤レンガの堤防と五十間鼻
羽田のレンガ堤防は、洪水対策として大正から昭和初期にかけて行なわれた多摩川改修工事で建設された。自然堤防上、道路面から腰高ほどのレンガ堤防を建設したのは、堤内外を日常的に往来する羽田猟師町の土地柄への配慮であった。イギリス積み工法による堤防は「赤レンガの堤防」と親しまれ、羽田の原風景ともいえる。そのレンガ堤防の突端、多摩川と海老取川の合流地点には、長さ50間(約90m)の石積みの沈床があり「五十間鼻」と呼ばれる。新防潮堤が完成し隠れてしまったが、今も昔も初日の出の絶景スポットである。
大田区観光課」
「赤レンガの堤防」が続いています。
<鉄道トンネル>
「東海道貨物線」が海底トンネルで通っています。
「この河川の下には下記のような埋設物があります。」
海に突き出た小さな祠があります。
多摩川と海老取川の合流する場所に、五十間(約90m)に渡って水中に石を敷き詰めたことから名付けられた「五十間鼻(ごじゅっけんばな)」です。
その上に設けられたのが「五十間鼻無縁仏堂」です。
堂内の位牌には「妙法 多摩川五十間端水死横死之諸霊」とあります。
<五十間鼻無縁仏堂の由来>
(説明板)
「五十間鼻無縁仏堂の由来
創建年代は、不明でありますが、多摩川、又、関東大震災、先の第二次世界大戦の、昭和二十年三月十日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が漂着致しました。
その方々をお祀りしていると言われております。
元は、多摩川河口寄りの川の中に、角塔婆が一本立っているだけで有りましたが、初代
漁業組合長 故 伊東久義氏が管理し毎年お盆には、盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養をしていました。昭和五十三年護岸工事に伴い、現在地に移転しました。その後荒廃著しく、仲七町会
小峰守之氏 故 伊東米次郎氏 大東町会 故 伊東秀雄氏が、私財を持ち寄り復興致しました。
又、平成十六年に、村石工業、北浦工業、羽田葬祭スミヤ、中山美装、中山機設
の協力により新たに、ブロック塀、角塔婆、桟橋、などを修理、増設、現在に至ります。
又、新年の水難祈願として、初日の出と共に、羽田本町日蓮宗 長照寺
住職 並びに信者の方々が、水難者への供養を、毎年行っています。
合掌 堂守謹書」
玉川弁財天のすぐ近く、堤防から階段を降りた先に「福守稲荷神社」があります。