守稲荷神社は、文化文政期に鈴木新田を開墾する際、鈴木新田の地に祀られました。
明治18(1885)年公衆参拝の許可を得て京浜間の流行神となります。
昭和20(1945)年9月GHQによる強制退去により羽田神社に仮遷宮、昭和23(1948)年2月現在の地に遷宮しました。
<表参道(西参道)>
扁額「穴守神社」を掲げた「鳥居」です。
社号標「穴守稲荷神社」。
「川口穴守稲荷講」奉納の「行灯門」です。
「鳥居」
「行灯門」の先にも「鳥居」があります。
<南参道>
多くの「講碑」があります。
<飛龍明神>
三猿の庚申塔があります。
<東参道>
【境内】
<穴守稲荷神社境内略図>
「社史
社伝に云う。文化文政の頃鈴木新田(現在の空港内)開墾の際、沿岸の堤防しばしば激浪のために害を被りたり。夜時挺行の腹部に大穴を生じ、これより海水侵入せんとす。ここにおいて村民等相計り堤上に一祠を勧請し、祀る処稲荷大神を以てす。これ実に当社の草創なり。
爾来神霊の御加護あらたかにして風浪の害なく五穀豊穣す。その穴守を称するは「風浪が作りし穴の害より田畑を守り給う稲荷大神」という心なり。
そもそも稲荷大神は、畏くも伊勢の外宮に斎祀られる豊受姫命にましまして、衣食住の三要を守り給える最も尊き大神なり。吾等一日たりともこの大神の恩顧を蒙らぬ日はなく、実に神徳広大なり。
殊に当社は明治以来、大正・昭和を通じて、最も隆昌に至った。参拝の大衆日夜多く境内踵を接する如く社頭又殷賑を極め、崇敬者は国内は勿論遠く海外にも及べり。然るに昭和二十年八月終戦にのぞみ、敗戦と云う未曾有の大混乱の中、米軍による羽田空港拡張の為、従来の鎮座地より四十八時間以内の強制退去を命ぜられた。同年九月、地元崇敬者有志による熱意の奉仕により境内地七百坪が寄進され、仮社殿を復興再建。現在地(大田区羽田五丁目2番)に遷座せり。
爾来崇敬者各位の協力により社殿・神楽殿・社務等を復興し、令和二年春には目出度くも奥之宮を竣工。漸次昔日の面影を取り戻しつつある次第なり。」
<水琴窟>
「門被之松」が覆いかぶさっています。
赤い鳥居のある狐さん(小石)の上に柄杓で水をかけます。
下に埋められた巨大な瓷(高さ84cm 直径66cm)に水が落ちていく際に反響して音色が響きます。
「水琴窟 東国一」
(説明板)
「村石家と大瓷の由来
社史に記されている通り、当神社はかつて羽田穴守町(現羽田空港)に鎮座し興隆を極めた。
然しながら昭和二十年の敗戦を臨み、GHQの指令により四十八時間以内の強制退去を余儀なくされ、穴守稲荷神社も村石家も不慮も、不慮も嘗ての地を離れざるを得なくなった。
この大瓷は戦前より村石家で水瓷として用いられていたもので、七十余年の歳月を経て、再び水を湛える事となった。
穴守稲荷神社と羽田三町の住民が辿った歴史と復興の象徴として令和三年春この大瓷の他、湧水を得るための削井をはじめ作庭改修に係る費用の一式を奉納された赤心は如何許りか知れぬ。
令和の御代に甦る悦き音色に心を静め、穏やかな心持ちで御前に参詣頂ければ幸いである。
令和三年四月五日」
<神楽殿>
<神木>
御神木のクスノキは、現在地への遷座に当って植樹されたものです。
境内案内図には「大久寿」とあります。
<輝緑凝灰岩>
(説明板)
「岩石名 輝緑凝灰岩
第三紀より古い地質時代の地層中にはさまれる岩石で 塩基性の玄武岩 安山岩質の火山性岩石で 凝灰岩は 火山活動により出来たものです 武甲山周辺のものは さまざまであるが 主に輝緑凝灰岩の噴出時の火山灰が 海底に堆積し固結した 古代の時代の凝灰岩です 当岩石は 関東山地の古生界の分布する所にあり 地層は秩父古生層と称され古生代末期 二億五千萬年前の 石炭紀二畳紀の時代のものです 岩石の色は 緑色暗緑色で 酸化第二鉄 赤鉄鉱を 含むことにより 赤紫色をした 緻密な 塊状 片状の岩石で 一般にさまざまな形に変質して居ります。
奉納者
埼玉県所沢市日吉町十八ノ二十二
鶴田良作
昭和五十二年三月八日」
<手水舎>
<社殿・本殿>
<天水桶>
昭和39(1964)年銘の川口産の天水桶です。
「製作人川口市 山崎甚五兵衛」
<社務所>
令和2(2020)年に奥之宮の改修工事が終わり見事な稲荷山が再整備されています。
「千本稲荷」
「御神砂」「必勝稲荷」「開運稲荷」「出世稲荷」「繁栄稲荷」
<奥之宮>
「御神砂縁起
今は昔 羽田浦は要島に一翁あり 要島は干拓く島なれば堤にて固め成されり
然ど津波に襲し堤破るる事屡なれば 堤の上に祠を構へ 稲荷大神を勧請するに
風浪の害止み 之をもちて穴守稲荷と称す
或日 翁漁より帰りて魚篭を覗くに 釣せし筈魚は無く只湿砂のみ在り 翌も翌々も大漁なれど同く魚は無く
湿砂のみ在るを訝しく思ひし翁 村衆に此を談る
衆人此を狐の仕業とし穴守稲荷の社を囲みて狐捕へけれど 翁此を赦し放てり
此より後 翁漁に出ずる度大漁なり 魚篭には許多の魚と僅なる湿砂あり 嫗此の砂庭に撒くに忽ち千客萬来す 斯くて翁冨を得る
故 翁に肖り御砂以て招福の徳を得むと 穴守の砂求むる者四方八方より訪れり
尚 今日に至る」
<航空稲荷><末廣稲荷><幸稲荷><篠山稲荷>
稲荷山の二階の踊り場に、4つの稲荷社が祀られています。
<航空稲荷>
「空の日」の9月20日、穴守稲荷神社では令和4(2022)年から航空安全祈願祭が復興しています。
政府が昭和15(1940)年に「航空日」を制定、平成4(1992)年に「空の日」に改められています。
9月20日から30日までを「空の旬間」と定め、各地で航空関連のイベントが開かれています。
(説明板)
「東京羽田 穴守稲荷神社摂社
航空稲荷御由緒
首都東京の空の玄関口である東京国際空港(羽田空港)は、かつては穴守稲荷神社の鎮座地であり、羽田穴守町と呼ばれ、神社参詣を主とした京浜間の一大観光地として栄えていました。
大正六年(一九一七年)、玉井清太郎と相羽有らによって羽田穴守の地に「日本飛行学校」と「日本飛行機製作所」が創立されると、航空の適地としても注目される様になり、その後昭和六年(一九三一年)には神社の北側に「東京飛行場」が開港し、現在の羽田空港の礎となります。しかし敗戦により、神社は連合国軍による東京飛行場接収により、ただ一基の大鳥居だけを空港に残し、三千人の住民共々強制退去の耐え難き苦難に見舞われますが、信仰は失われる事はありませんでした。
昭和三十年(一九五五年)五月十七日、羽田空港旧ターミナルビルが穴守稲荷の本殿跡に建設され、その屋上には空の安全を祈念し「穴守稲荷空港分社」を祀る事になりました。以来、航空関係者の篤い崇敬もあり「羽田航空神社」と連れ添って、四十年に渡り空港の安全と繁栄を見守り続けます。
平成の御世となり空港沖合展開が始まると、旧ターミナルビルが撤去される事になり「羽田航空神社」は、第一ターミナルビルへと遷座、「空港分社」は穴守稲荷本社に合祀されましたが、いずれの御社も穴守稲荷の神職により祭祀を続けられてきました。
そして穴守稲荷神社令和の大改修を機に、その御神霊は空港分社として数多くの方から驚い崇敬を受けてきた由緒を鑑み、改めて摂社「航空稲荷」として境内に一祠を構え、航空業界を始めとする篤信家たちの協力を得て、復興への第一歩を歩み出します。
航空稲荷の大神さまは、今日も大空へ羽ばたく飛行機を間近に見行わし、空の安全を願う人々の列なみは、絶える事がありません。」
「穴守稲荷羽田航空史略年表」
<穴守稲荷上社>
稲荷山の頂上に「穴守稲荷上社」が祀られています。
<御嶽神社>
明治39(1906)年、南多摩郡横山村より遷座、祀られました。
明治39年銘の「御嶽神社」碑があり、横山村とあります。
<下山>
下り階段は上社の裏手です。
<狐塚>
階段を下りると、「狐塚」があります。
<招福砂>
「招福砂の由緒
このお砂をいただき、家運繁栄あるいは清めのお砂として撒かれますと人の心を和め祓いて導きのある徳、即ち神福が授り商売繁盛、家庭安全、心の願いが叶えられる招福の砂として広く稱えられております。
穴守稲荷神社」」
<福徳稲荷>
狐塚の外に出ると、「福徳稲荷」です。