Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 半田稲荷神社


○半田稲荷神社 葛飾区東金町4-28-22

 和銅4(711)年の創建とも永久年間(1113-17)の創建ともいわれる古社です。
 享徳4(1455)年、古河公方(足利成氏)が当社に戦勝祈願、願文は当社の社宝として現存されているといいます。
 足利成氏の祈願所のほか、尾張徳川家の立願所としても加護を受け、現在の社殿も同家の寄進により建てられました。
 江戸名所の1つとして、歌舞伎・花柳界・魚河岸を中心とする講中が多く存在しました。
 また、赤ずくめの扮装で、半田稲荷を歌う願人坊主は評判となり、子供の疱瘡や麻疹、安産祈願の参詣で人気を博しました。
 これを取り入れた歌舞伎や狂言が上演され、歌舞伎役者からも信仰を集めました。
 

「江戸名所図会 半田稲荷社」

 山門から一直線に「本社」まで参道が伸び、途中一之鳥居が見えます。
 「本社」の右には「別当」、左には「狐穴」があります。現在の境内の様子とさほど変わりません。

   
 

「新編武蔵風土記稿 葛飾郡之八」

 「新編武蔵風土記稿」では、和銅4(711)年の創建とされています。
 狐に乗った十一面観音像の挿絵が掲載されています。

   
 

「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)

 村尾嘉陵は文化14(1817)年に半田稲荷社へ参詣「半田いなり詣の記」を記しています。
 浜町→小梅→四ツ木→曳船→新宿→夕顔観音→半田稲荷社とたどります。
 江戸市中からは、水戸街道だけではなく、四ツ木道(曳船)の利用も多かったようです。

  
 

<願人坊主>

「近世流行商人狂哥絵図」(曲亭馬琴)

 「榛田稲荷代垢離願人」が描かれています。

 読みやすく現代用に置き換え。
 「葛西金町
  半田の稲荷
  疱瘡も軽い
  麻疹も軽い
  大きな御利生
  素敵な御利生
  家内安全
  息災延命」

   
 

「江戸年中風俗之絵」(橋本養邦)

 路上を移動中の「榛田稲荷願人坊主」「わいわい天王」が見えます。

   
 

「十二月之内 坂東三津五郎所作事」(国貞 文化10(1813)年 ボストン美術館)

 「初午や梅に威をます大鳥の 山東京伝」とあります。

  
 

<社号標/一之鳥居>

 社号標「半田稲荷神社」と一之鳥居です。

   
 

<道標>

 道標「是与り」「正一位半田稲荷大明神」とあります。
 元文5(1740)年、神田三河町一丁目講中による奉納です。

   
 

<道標>

 道標が二基あります。両基とも文政8(1825)年銘(再建)で、浅草講中の奉納です。

  

 (正面)「右」「半田稲荷道」

   

 (正面)「ひ多り」「半田稲荷道」

   
 

<東京睦講中記念碑>

 明治34(1901)年の建立です。
 江戸下町の地域の名前が広域に見られます。

  
 

<手水舎>

 文献によると享保19(1734)年銘の水盤(新吉原江戸町桜屋岡田氏奉納)があったようですが、水盤は新しくなっています。

   
 

<玉垣/二之鳥居>

    
 

<神狐>

   
 

<東参道>

 社号標「半田稲荷神社」です。

  
 

【境内】

<半田稲荷神社神泉遺構> 葛飾区文化財

 二之鳥居をくぐってすぐ右手に「神泉遺構」があります。
 願人坊主が、水垢離を行った井戸跡です。井戸としての機能は失われていますが、原位置で丁寧に保存されています。
 周囲を囲う石柵には、市川団十郎をはじめ、左団次・菊五郎・羽左衛門などの歌舞伎役者や花柳界・魚河岸講中の名前がずらりと並んでいます。

   

(説明板)
「葛飾区指定有形文化財
  半田稲荷神社神泉遺構
    所在地 葛飾区東金町四丁目28番22号
    指定年月日 平成7(1995)年2月22日
 半田稲荷神社の創立は、『新編武蔵風土記稿」では和銅4年(711)、社伝では12世紀初期とされる古社です。江戸時代中期の享保年間には、麻疹や疱瘡よけ、安産に霊験ありとして信仰を集めていました。
 江戸では、麻疹や疱瘡を防ぐ色とされた赤色の衣装を着た願人坊主が、謡い踊りながらお札や、災いが去るおまじないの「くくり猿」を売り歩きました。 文化10年(1813)には、坂東三津五郎が中村座の歌舞伎で半田稲荷の願人坊主に扮して大人気となり、浮世絵にも描かれました。
 この神泉遺構は、願人坊主が神仏に祈願する際、水を浴びて体のけがれを去る水垢離を行ったところです。 井戸枠には今も注連縄が掛けられ、旧来の形状がよく保存されています。
 石棚の柱や袖石には、市川団十郎や尾上菊五郎ら歌舞伎役者の名前も見え、当神社の繁栄を今に伝えています。
  葛飾区教育委員会」

  

 石柵「新富座 守田勘彌 尾上菊五郎 市川團団十郎」

     

 袖石「新富町五丁目 大新」など

   
 

<大黒湯石燈籠>

 神泉遺構の裏に、「大黒湯」と刻まれた大きな石燈籠があります。

  
 

<神楽殿・神輿庫>

 慶応2(1866)年の神楽殿です。

  
 

<社務所>

  
 

<神狐>

 拝殿前の神狐です。

   
 

<拝殿/本殿>

 本殿は、弘化2(1845)年に尾張徳川家の立願により造営されました。
 拝殿は、天保15(1866)年の再建です。
 

    

 向拝天井には鳳凰が描かれています。
 扁額は中村正直筆です。

   
 

<四基の石碑>

 神楽殿の横に四基の石碑があります。

    

    
 

<境内社>

 石鳥居と朱色の奉納鳥居が続きます。

  
 

<狐塚>

 江戸名所図会に描かれている狐穴が、当時の場所とは異なりますがあります。

    

 神狐が躍動的です。

   

 黒ボクの上に石祠があります。

   
 

<半田稲荷神社狐一対> 葛飾区文化財

 白狐殿の前にある一対の神狐像が葛飾区文化財です。
 台座には寛延元(1748)年、天明8(1788)年再興とあります。

   

 左の神狐像は頭部がセメントで修復。首に継ぎ目があります。

     

 右の神狐像は左耳が補修されています。足が折れた跡があります。

     

(説明板)
「区登録有形文化財
  半田稲荷神社狐一対
    所在地 葛飾区東金町四丁目28番22号
    登録年月日 平成3年3月25日
 左右台座正面には「寛延元年(1748)戌辰年十一月吉日 海野・坂本・筒井氏」とありますが、側面には「天明八季(1788)戌申八月吉日 飯塚桃葉再興」とあります。台座のみの再興か、狐も含めて再興かは不明です。
 向かって右の狐は左耳が一部補修され、左の狐はセメントで頭部が造られていますが、区内にある狐の石像としては現在のところ最古のものです。」
参考資料
 飯塚桃葉は江戸時代の蒔絵師で徳島藩に召し抱えられ、印籠・文箱・盆・鞍など優れた作品を残しています。 中でも『宇治川蛍蒔絵料紙硯箱』(宮内庁所蔵)は格調高い作品です。飯塚桃葉〔寛政2年(1790)没〕
  葛飾区教育委員会」

  
 

<稲荷十五神合社(白狐社)>

 扁額「白狐殿」とあります。稲荷十五神合社は江戸名所図会に描かれています。

   

    
 

<雷電社>

 本殿脇に雷電社が鎮座しています。
 脇に、「大土神社」(左)、「水神宮」(右)の石祠が並んでいます。

  
 

<稲荷大明神>

 「稲荷大明神」の石祠もあります。

  
 

<石碑と石祠>

 石碑が三基と石祠二基が並んでいます。

 一番左の石碑は「御拝殿白狐社敷石寄附付」(明治43(1910)年7月)とあります。
 隣は、松戸町の人々の名前が刻まれていて、寄附碑のようです。三基目はわかりません。

     


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