Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 ○ 花園神社/新宿富士

    ・表参道
    ・南参道
    ・内藤トウガラシ
    ・西参道
    ・威徳稲荷神社芭蕉句碑
    ・納大明神
    ・拝殿
    ・忠魂碑
    ・新宿富士(芸能浅間神社)


○花園神社 新宿区新宿5-17-3 HP

 花園神社は、内藤新宿の鎮守社で、内藤新宿の茶屋等が奉納した石造物等が多くあります。
 

表参道】

 表参道は、明治通りに面してあります。

<社号標/大鳥居>

 「花園稲荷神社」は、昭和40(1965)年まで使用された社号です。

 「花園稲荷神社
  海軍大将 加藤寛治敬書」

   
 

<百度車塔>

 大鳥居の左横に、明治2(1869)年銘の「百度車塔」があります。仏教だと念仏車(後生車)です。
 内藤新宿の下宿の茶屋中による奉納です。

 「明治二己巳冬二月
  下宿 茶屋中」

   
 

南参道】

 南参道は、靖国通りに面してあります。

<社号標/鳥居>

 南参道の社号標と鳥居、石燈籠です。

 「花園神社」

  
 

<花園神社由緒記>

 参道右手です。

「花園神社由緒記
  祭神 倉稲魂神 日本武尊 受持神
  由緒 花園神社は古来新宿の総鎮守として内藤新宿に於ける最も重要な位置を占め来たった神社である。徳川氏武蔵国入国以前の御鎮座にして大和国吉野山より御勧請せらけれたと伝えられる。
寛永年中以前の社地は現在の株式会社伊勢丹の地域にあり、東西六十五間、南北に七十五間に亘った神域に及び、神社をも下屋敷の内に囲い込まれたのでその由を御訴えに及び現在の社地を代地に拝領したと伝えられる。」

  
 

<唐獅子> 新宿区文化財

 文政4(1821)年に内藤新宿の氏子たちによって寄進された銅造の唐獅子です。

     
 

(説明板)

「新宿区指定有形文化財 彫刻
 花園神社の唐獅子像
   所在地 新宿区新宿五丁目十七番三号
   指定年月日
 文政四年(一八二一)に造立された雌雄一対の銅製の唐獅子像である。
 内藤新宿の氏子たちにより寄進されたもので、台座には発願者・援助者・世話人等の名が刻まれている。
 像高七十五センチ、台座高一三七センチ。
 彫工佐脇主馬の製作した原形により、鋳工村田整a(初代)が鋳造したもので、注連縄が浮彫された台座は石工本橋吉兵衛の手になるものである。
 頭部は四つの部分(上頭部・顔・後頭部・たてがみ)に分けて鋳造し、身体も胴から後足、前足、尾の三つの部分をそれぞれ左右に分けて鋳造したものを接合して
製作されている。
  平成二十七年三月  新宿区教育委員会」

  
 

内藤トウガラシ>

 花園神社に「内藤とうがらし」の説明板が設置されています。
 内藤家屋敷内の菜園では故郷の野菜を栽培し、内藤とうがらしは新宿付近で盛んに作られるようになり、
 新宿周辺から大久保にかけての畑一面を真っ赤に染めました。

(説明板)

「江戸・東京の農業
 内藤トウガラシとカボチャ
 新宿御苑は、江戸時代高遠藩主内藤家の下屋敷でした。当時、武家では屋敷内の畑で、野菜などを栽培し自給する習わしが一般的で、内藤家でも野菜を栽培していましたが、中でも軽くて肥沃な土に適したトウガラシがよくでき、内藤トウガラシと呼ばれて評判となり、新宿付近で盛んに作られるようになりました。
 「新編武蔵風土記稿」(1828)には、「四ツ谷内藤新宿及び其辺の村々にて作る、世に内藤蕃椒と呼べり」とあり、当時は新宿周辺から大久保にかけての畑は、トウガラシで真っ赤になるほどだったといわれています。
 このトウガラシは八房といって、実が房のように集まって付き、しかも上を向いて葉の上に出るような形になるため、熟すと畑一面が真っ赤に見えたのです。
 保存のできる調味食品として、庶民に喜ばれましたが、明治に入ると都市化により栽培も激減し、産地も西の方に移っていきました。
 この地域ではカボチャの栽培も盛んで、「内藤カボチャ」とか「淀橋カボチャ」ともいわれていました。
  平成9年度JA東京グループ
  農業協同組合法施行五十周年記念事業」

  
 

<社号標>

 「花園稲荷神社」は、昭和40(1965)年まで使用された社号です。

  
 

西参道】

<鳥居/狛犬>

 西参道の鳥居と狛犬です。

    
 

【境内】

<手水舎>

 水盤は、文化10(1813)年の造立、昭和40(1965)年の修理銘。
 江戸後期の漢詩人大窪詩仏の詩が刻まれています。

   
 

<神楽殿>

  



威徳稲荷神社

     
 

<男根>

 扁額の後ろに木造の男根が祀られています。
 撫でられるように、脇に石台があります。
 また、祠の後ろには石造の男根が祀られています。

   
 

<梅沢先生回文碑>

 文化13(1816)年8月に能勢嘉門が建立。
 「うくひすの 歌のてに葉のよしあしは 三光院に御説あるらし」という句などが刻まれています。

    
 

<石燈籠>

 寛政4(1792)年2月に内藤新宿の旅籠屋など95名が奉納した石燈籠です。
 石燈籠の両脇には芭蕉句碑があります。

   
 

芭蕉句碑>

 内藤新宿の旅籠屋茶屋中・芸者中が、安永7(1778)年に建立した芭蕉句碑です。
 「蓬莱に きかはや伊勢の 初たより はせを」と刻まれています。

  
 

<芭蕉句碑>

 明治29(1896)年3月に窪寺某らが建立。
 「春なれや 名もなき山の 朝かすみ はせを」と刻まれています。

  



納大明神

 社殿前にある、古札や破魔矢などを納める「納大明神」です。
 木札には「腹の立つことなども当神社にお納め下さい」とあります。

   



拝殿

  
 

<花園神社拝殿神額>

 「雷電神社
  花園神社
  大鳥神社」

  
 

<古い神額>

 「花園 雷電 稲荷大明神」

  



○その他

忠魂碑> 新宿区文化財

 トイレの横の植栽に「忠魂碑」があります。
 明治40(1907)年に日露戦争の戦死者を慰霊して内藤新宿奨兵会が建立し、関東大震災で倒壊、昭和3(1928)年の再建です。
 揮毫は東郷平八郎。

   
 

「地域文化財
 第28号 忠魂碑
 昭和3年に再建された日露戦争の戦死者の慰霊碑。明治40年に内藤新宿奨兵会が建立したが、
 関東大震災で倒壊したため再建された。揮毫は東郷平八郎による。
 昭和戦前期の戦争と地域や家族との関わりを示す文化財である。 新宿区」

  



新宿富士(三光町富士)/芸能浅間神社

 昭和3(1928)年に元講が富士塚を築造。昭和39(1964)年、新社殿造営で撤去。昭和40(1965)年、現在地に遷御。
 元講碑などがあります。
 社号標「芸能浅間神社」は、昭和56(1981)年、八代亜紀の奉納です。

    
 

<瑞垣奉納者列名(芸能玉垣)>

 ステンレス製の玉垣に芸能人の奉納者名が書かれています。
 「浅間神社玉垣 掲出は二年間 壱万円 お申込は社務所まで」と玉垣に掲示がありました。

   
 

<元講碑など>

 「開山典記念」(元講社)には、富士浅間大神遙拝所建設寄付者芳名が刻まれています。

    
 

<「圭子の夢は夜ひらく」歌碑>

 石坂まさをの作詞作曲生活30周年を記念し、平成11(1999)年12月の建立です。
 「赤く咲くのは けしのはな
  白く咲くのは 百合のはな
  どう咲きゃいいのさこの私
  夢は夜開く
  十五 十六 十七と
  私の人生 暗かった
  過去はどんなに 暗くとも
  夢は夜ひらく」
 なお、「新宿の女」の歌碑が、西向天神社境内にあります(こちらで記載)。

   
 

<二宮金次郎像> 品川区文化財

  
 

「地域文化財
 第6号 花園神社の二宮尊徳像
 旧四谷第五小学校にあったもので、同校が廃校になったため花園神社に移された。
 昭和8年以前の製作。 新宿区」

  
 

「二宮金次郎像
 貧しい生活の中でいっしょけんめい勉強した二宮金次郎(後の二宮尊徳)のこの石像は
 昭和8年(1933年)の校舎建築中のころ、長崎武文氏(昭和8年卒)の父、佐次郎氏が
 千葉から荷馬車で運んでこられたものです。
  (平成2.10.27)」

  


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