Discover 江戸史蹟散歩
 
 江戸川区 塩の道新川/妙見島

  ○ 塩の道新川(江戸時代)
  ○ 江戸川区史跡「新川」
  ○ 江戸時代創業の銭湯 別頁
  ○ 新川西水門広場
  ○ 西水門(中川)〜東水門(旧江戸川)
  ○ 新川さくら館
  ○ 新川口児童遊園  別頁
  ○ タワーホール船堀 別頁
  ○ 妙見島


塩の道新川 江戸川区

 新川は、天正18(1590)年、江戸城に入った徳川家康が千葉県の行徳までの塩の船路開削を命じ、道三堀・小名木川と同時に開削されました。
 新川は利根川〜江戸川〜新川〜小名木川〜隅田川を結ぶ江戸市中へ様々な物資を運ぶ重要な運河となりました。
 とくに行徳の塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されました。
 沿川には味噌や醤油を売る店や、舟宿や料理屋、銭湯などが立ち並び賑わいを見せました。
 江戸時代創業の開店の合図に使ったホラ貝が残っている銭湯「鶴の湯」「乙女湯」「あけぼの湯」が現在も営業しています(こちらで記載)。

「東都近郊図」(文政8(1825)年 都立図書館蔵)

 「東都近郊図」から、新川部分の抜粋です。

  

「名所江戸百景 中川口」(広重)

 塩の道(水路)と中川が交差する場面です。手前に小名木川(客を乗せている船2艘)、中央に中川、奥に中川と江戸川を結ぶ新川(船堀川)が描かれています。
 小名木川と新川は、下総の行徳塩田から塩を運ぶために開削された運河で、2つを合わせて「行徳川」とも呼ばれました。
 左下にわずかに中川船番所の石垣と柵が描かれています。

  

「絵本江戸土産 中川」(広重)

 江戸名所百景から少し左に寄ったアングルで、奥に新川、手前に中川船番所の屋根が見えます。

  

<行徳船>

 日本橋小網町の行徳河岸を発った行徳船は、小名木川に入り助っ人を1人頼み2人による竿で進んだようです。
 「江戸名所図会 小名木川五本松」「名所江戸百景 小奈木川五本まつ」(広重)に描かれている
 小名木川の五本松の下を行く行徳船は2人による竿で運航しています。

   
 
 「名所江戸百景 中川口」(広重)に描かれている小名木川と新川の間の中川口では、行徳船は一人で櫓を漕いで進んだようです。
 新川を曳船で進むための杭が船中に見えます。

  

 新川では川沿いに人足用の道がつけられ、行徳船は1人が船の杭に結ばれた綱で船を曳き、もう1人が船の横を竿で押して遡りました。
 新川での行徳船の絵がなかったので、「名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね」(広重)の曳舟川の曳舟の様子です。

  

 直線ではなく曲がっていたかつての流路であった古川では、竿で進んでいます。
 「江戸名所図会 二之江妙勝寺」から、妙勝寺前を流れる古川を行く船の抜粋です。

  

 新川から江戸川に入って行徳までは、櫓を漕いて遡りますが、川の流れに逆らう難所だったようです。
 「江戸近郊八景之内 行徳帰帆」(広重)に描かれている櫓を漕いでいる「行徳船」の抜粋です。

  

江戸川区史跡「新川」

 新川沿いには、江戸川区説明板「新川塩の道 新川千本桜」が複数設置されています。

(説明板)
「新川塩の道 新川千本桜
新川 江戸川区指定史跡(昭和六十一年二月十二日指定)
 かつて、江戸川から古川の流れを経て、三角で新川に入り、西へ至る流路がありました。
 天正十八年(一五九○年)の徳川家康江戸入城後、その命により、この流路を含め、行徳までの航路として、道三堀、小名木川と共に開削が計画され、実行されました。
 寛永六年(一六二九年)には、現在の新川橋辺りから東側が新たに開削され、今では全体が新川と呼ばれるようになりました。以来、新川は、江戸市中に様々な物資を運ぶ水路、行徳の塩を運ぶ「塩の道」として多くの人に利用されてきました。また、沿川には味噌や醤油を売る店や料理店などが立ち並び賑わいを見せていました。
 新川は、江戸時代から明治・大正に至るまで、利根川・江戸川を経由して、東日本からの様々な物資を運び、客船が行きかう重要な水路として発展し、地域の人々の生活に深く関わってきました。
 しかし、昭和に入り荒川放水路の完成や東西の水門の閉鎖等により、船の就航も行われなくなりました。さらに、高度経済成長期には、地下水の汲み上げによる地盤沈下により、新川との間に何回も嵩上げされた高い護岸が整備され、人々の生活から遠い存在となってしまいました。
 その後、平成五年より耐震護岸整備・親水河川化や新川千本桜整備が進められ、都市空間の中の貴重な水辺として生まれ変わり、親しまれています。

新川千本桜
 平成十九年四月から、新川の両岸の遊歩道に桜を植樹し、江戸情緒あふれる街並みとして整備する「新川千本桜計画」を始めました。新川の全長約三キロメートルの両岸に桜を植え、新しい桜の名所とし、潤いと賑わいのある街の創出のため江戸情緒あふれる川辺づくりや、南北地域の和が一層広がるよう人道橋並びに広場橋の架設など、歴史や文化を継承する空間を創出しました。」

「名所江戸百景 中川口」歌川広重
 手前が小名木川で、左下に中川番所の建物や石段が描かれています。中央を左から右に中川が流れ、その奥が新川です。江戸時代から昭和中期まで、水運の動脈でした。この絵にも材木筏や船の運航が盛んであった様子が描かれています。

    

  

「新川を行きかう船」
 上の写真は、明治10年に就航した「通運丸」です。
 下の写真は、高橋(江東区)と浦安の間の定期船である葛飾丸などの「ポンポン蒸気」です。

  


新川西水門広場 江戸川区船堀2-1

 新川の中川への合流地点にある火の見櫓のある広場です。

    
   
(説明板)
「塩の道新川

新川西水門広場
 新川西水門広場は、新川千本桜の起点として整備され、敷地内には、昔ながらの石積や本瓦葺き屋根の白壁、桜を基調とした植栽等を配置した江戸情緒醸す広場です。その他に、白壁の蔵を模した手洗い所や、新川千本桜のモニュメントとなる火の見やぐらがあります。この火の見やぐらには、開放時に登ることができ、あたりを一望することができます。

新川西水門跡
 高度経済成長期において、工業化による地盤沈下が進み高潮に耐えられなくなったため、昭和三十七年から昭和四十年にかけて東西の水門を、昭和四十一年から昭和四十三年にかけては、新川排水機場を設置しました。台風等の高潮や異常潮位に際しては東西の水門を閉鎖し、閉鎖中の水位の上昇に対しては、排水機場から中川に排水していました。
 昭和五十一年以降は東西水門を常時閉鎖して新川の推移をAP+○.五メートルまで低下させて安全性を確保しました。
 そして、水門の役目を終わった新川西水門がここにあったことを記憶に留めておくために、その柱の一部を残しました。

火の見やぐら
【高さ五丈(十五メートル)、根開き三間(五、四メートル)】
 「火事と喧嘩は江戸の華」とはよく聞く言葉ですが、最初に江戸の町を襲った大火は、明暦三年(一六五七年)のいわゆる「振袖火事」です。
 大火の翌年(一六五八年)に、幕府直属の定火消(じょうびけし)が設けられた際、火消屋敷の敷地内に火の見やぐらが建てられました。(四箇所)
 火事を警戒するために常時上って監視し、火災のときには出火場所の方向、距離などを見定めるためのやぐらでした。やぐら上には半鐘が設置されており、これを打ち鳴らして火事を知らせました。
 火の見やぐらは、高さ三丈(約九メートル)根開き二間(三、六メートル)で最も格式が高かったものを模して新川の江戸城に一番近い新川水門広場に新川千本桜のモニュメントとして設置しました。  江戸川区」

  

<火の見やぐら>

 土日祝日に開放(桜の時期は平日も開放)されており、登ることができます。

    

 火の見やぐらからの眺望

    

    

<中川とスカイツリー>

 中川堤防からの光景

    

 タワーホール船堀

  

<旧新川西水門遺構>

 旧新川西水門の遺構が聳えています。

  

<新川排水機場> 江戸川区北葛西1-16-22

(説明板)
「水害のない町に 新川排水機場 東京都江東治水事務所
 新川排水機場は、新川の西端、中川との合流点に設置されています。新川は旧江戸川より分流し、中川に合流する全長3.68kmの河川です。江戸時代に行徳の塩を江戸に運ぶための航路として開削されましたが、現在では、川の東端ともに締め切られています。
 東端にある新川東樋門より旧江戸川の河川水を浄化維持用水として導水し、西端にある新川排水機場より中川へ排水ることで水位を一定に保っています。新川排水機場は、新川の水質を維持するともに、周辺地域を水害から守る働きをしています。」

   

<西水門橋> 江戸川区船堀二丁目〜北葛西一丁目

    


西水門(中川)〜東水門(旧江戸川)

 新川には、7つの車道橋と7つの人道橋が架かっています。

  

 西水門橋から新川上流です。 江戸川区船堀二丁目〜北葛西一丁目

  

<人道橋「擬宝殊橋」> 江戸川区船堀二丁目〜北葛西一丁目

 人道橋「擬宝殊橋」からのスカイツリーです。

    

新川さくら館> 江戸川区船堀7-15-12 HP

 新川さくら館のマスコットキャラクター「新川さくらちゃん」がお出迎えします。

     

   

<三角橋の碑> 江戸川区船堀7-16

(プレート文)
「『三角橋』の碑
 三角橋は、都市計画道路補助第290号線の整備にあわせ、新川に架かる新しい橋として平成八年五月に着手し、平成十二年二月に完成しました。
 水辺を身近に感じる歩道と、緩やかなアーチ形がこの橋の特徴です。
 橋の名前は、地域の方々により親しまれるように皆様から応募を頂き名づけました。
 この三角橋の完成により、地域の結びつきが強化されるとともに更なる発展を託し、これを誌します。
  平成十二年二月吉日 江戸川区長 多田正見」

   

<人道橋「花見橋」> 江戸川区江戸川五丁目〜東葛西一丁目

 橋の上が広場となっています。

  

 花見橋から、環七通りの「新川大橋」下の光景です。

  

<新川東水門> 江戸川区江戸川五丁目〜東葛西一丁目

 


妙見島 江戸川区東葛西3-17、3-16

 妙見島は、旧江戸川の河口付近の中州です。
 川の流れによって北端部が浸食され、南端部に土砂が堆積し、上流から下流へと少しずつ移動していたことから、
 「流れる島」として知られていました。
 島の周囲をコンクリートで囲む護岸工事が行われてからは、移動は止まったようです。

 こちらは「進め〜ひょっこりひょうたん島、ひょっこりひょうたん島」(NHK放送博物館展示)

  

 妙見島には徒歩・車ともに浦安橋から渡ります。
 島内にある建物のほとんどは工場で、ダンプやトラックの往来が頻繁です。

「東都近郊図」(文政8(1825)年 都立図書館蔵)

 「東都近郊図」から、妙見島部分の抜粋です。
 妙見島と繋がったのか、妙見島の南に、島がもう一つ見えます。

  

<旧江戸川右岸から妙見島の光景> 江戸川区東葛西一丁目

 旧江戸川右岸の新川東水門が修景工事中で、一部通行不可です。
 新川東水門脇から旧江戸川遊歩道に入ります。

     

 旧江戸川右岸は「武蔵野の路 葛西コース」の一部となっています。

   

 堤防に囲まれた妙見島です。月島食品のマーガリン工場と敷地内に多くの冷蔵車が見えます。

    

<浦安橋>  江戸川区東葛西三・四丁目〜浦安市当代島・猫実

 初代の浦安橋が昭和15(1940)年に架橋され、現在の浦安橋は昭和53(1978)年に建設されました。
 橋中央に妙見島への進入路が設けられており、浦安橋から妙見島に入ります。

     

<島内堤防>

 島内堤防の上の扉は施錠されており、扉からの旧江戸川の光景です。

 浦安橋近くの堤防から
    

 妙見橋北側の堤防から。
 対岸の当代島には、当代島水門が見えます。
 島の南側には、ニューポート江戸川のボートを旧江戸川に降ろすクレーンが見えます。
     

<ニューポート江戸川> 江戸川区東葛西3-17-16

 ヤマハマリン販売店で、マリンクラブのクラブハウスがあります。

  

<小祠> 江戸川区東葛西3-17

 如意輪観音像が納められており、墓塔でしょうか。

   

<妙見神社> 江戸川区東葛西3-17-14

 月島食品入口手前の左手に妙見神社があります。

    

     

<防潮堤(西側)>

 妙見島西側の防潮堤は川も対岸も見えません。社有地に突き当り引き返します。

    

<銘板>

 防潮堤建設工事の銘板が数多くあるようですが、西側の3枚です。

 「2013年7月
  妙見島防潮堤建設工事(その12)
  ← 延長161.1m
   東京都
  前田・イケハタ建設共同企業体施行」

 「2012年5月
  妙見島防潮堤建設工事(その11)
  → 延長155.4m
   東京都
  飛島・レムコ建設共同企業体施行」

 「2011年7月
  妙見島防潮堤建設工事(その10)
  → 延長132.35m
   東京都
  名工・豊田建設共同企業体施行」

    

<旧江戸川左岸から妙見島の光景> 浦安市猫実

 千葉県側から見た浦安橋と妙見島です。遠景にスカイツリーが見えます。

     

   


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