伊藤嘉兵衛家と相前後して、当地に移住し、嘉兵衛新田開発を進めた吉田家の私有墓地とその周囲の田畑をもとに創建されたと伝えられています。
荒綾八十八ヶ所霊場71番札所です。
<札所碑/道標>
「荒綾八十八ヶ所第七十一番円泉寺 嘉兵衛新田
是ヨリ辰沼龍岩寺 十四丁半」
【参道左手石碑群】
<廻国供養塔>
廻国供養塔
文政元(1818)年。
南無阿弥陀仏為三界万霊
寛永6(1629)年。
右脇下に日本廻国六十六部とあります。
大乗妙典日本廻国六十六部
明和元(1764)年。
<宝篋印塔>
文化6(1809)年の造立、施主は吉田増右衛門。
<庚申塔群> 足立区文化財
庚申塔が五基並んでいます。
(説明板)
「圓泉寺の庚申塔群
正面に向かって左から文政十一年(一八二八)銘・文政十年銘・年不詳・寛政九年(一七九七)銘・年不詳
円泉寺は山号を大光山、院号を観音院とする浄土宗寺院である。寺伝では正保三年(一六四六)開山とされ、阿弥陀如来立像を本尊として安置する。
山門を入って左側に並んでいる五基の石造物は、庚申塔と呼ばれる。
庚申塔は、我が国で平安時代以来盛んであった庚申信仰に基づいて造立された。この信仰は古代中国の道教から発生し、六十日でひと回りする十千十二支の「庚申(かのえさる)」の夜、寝入ると体内から三尸という虫が天に昇りその人の日頃の悪事を天帝に告げ、寿命が縮まるので徹夜をして三尸が抜け出るのを防ぎ長寿を析る俗信である。時代が下がると庶民にも広がり、江戸時代には村々に講が結成され、順番に宿を決め寄り集まって夜通し娯楽に興じることが主な目的となった。三年で結願とされ、庚中塔が造立された。
庚申塔の形態は様々であり、主尊も青面金剛を中心に阿弥陀・観音・地蔵等が彫刻された。
園泉寺所在の庚申塔は、三基が駒形(寛政九年銘・文政十一年銘・文政十二年銘)、一基が光背型(年不詳)、一基が自然石(割り石・年不詳)の形態であり、主尊は青面金剛の陽刻が三基ある。また主尊の代わりに「青面金剛」・「庚申塔」等の文字が刻まれる庚申塔は、江戸時代後期のものが多く、園泉寺所在の「青面金剛」と文字が刻まれた庚申塔も江戸時代後期の文政十一年の造立である。
光背型の庚中塔は造立年が不明だが、園泉寺十二世「弾誉上人」の名が刻まれている。弾誉の没年が享保十八年(一七三三)九月四日であるために、それ以前の造立であることが確認されるとともに、地域の庚申講に地元寺院の僧侶が関与したことを示す貴重なものである。
五基の庚中塔は、いずれも平成十八年三月に足立区登録有形民俗文化財となった。
平成二十二年三月 足立区教育委員会」
「文政11(1828)年銘」
文字庚申塔
「文政10(1827)年銘」
青面金剛像
「年不詳」
青面金剛像
「寛政9(1797)年銘」
青面金剛像
「年不詳」
「庚申塚」文字塔
<六地蔵>
<法然上人尊像>
<本堂>
<伊藤嘉兵衛と嘉兵衛新田>
武蔵国橘樹郡稲毛領(現・神奈川県川崎市北部)に居住していた伊藤嘉兵衛が、
当地に移住し嘉兵衛新田を開発しました。
足立区立郷土博物館掲示より抜粋
<神宮寺墓地>
神宮寺墓地は、円泉寺墓地の北西にあります。
元は加平2丁目8番にあったのを昭和40年に区画整理事業の際に円泉寺の墓地に改葬したものです。
円泉寺の墓地とは塀によって区切られ行き来はできません。
<伊藤家墓所>
説明板が日焼けして読みにくいですが、肉眼でははっきり読めます。
(説明板)
「伊藤嘉兵衛の墓
嘉兵衛新田の開拓者・伊藤嘉兵衛の墓で、台座まで含めると総高が約二メートルに及ぶ五輪塔である。もと加平二丁目にあったが、昭和四十年に現在地に移転した。
嘉兵衛新田について、『新編武蔵風土記』には、「名主嘉兵衛カ祖ナリシモノ。慶長元和ノ頃。当国稲毛領(神奈川県)ヨリ来リテ開発セリト云。家数六十五。(中略)東西八丁許。南北六七丁。乾ノ方六月村ノ内ニ飛地アリ。村ノ東ノ方ハ葛西用水ヲ引テ水田ヲ耕シ。西ノ方ハ三沼代用水ヲ沃ケリ。農隙ニハ浅草紙ヲ漉テ生産ヲ資ク。」と記している。
五輪塔の地輪正面に「武州足立郡渕江之内加兵衛新田住人 為浄照禅定門也 寛永十葵酉(一六三三)四月廿八日」と住居地、戒名および没年が刻まれている。
また、右側面には、没後百五十年を経た、天明三年(一七八三)にこの五輪塔が造立された旨が追記されている。地域の開発者の事蹟を留めるものとして、昭和六十年十一月区登録有形文化財(歴史史料)となった。
平成二十四年三月 足立区教育委員会」
<伊藤嘉兵衛の墓>
寛永10(1633)年4月28日に亡くなった伊藤嘉兵衛(法名「浄照禅定門」)の五輪塔の墓です。
(正面)
「武州足立郡渕江之内 加兵衛新田住人
為浄照禅定門也
寛永十葵酉四月廿八日」
(右側面)
没後百五十年を経た天明3(1783)年に、この五輪塔が造立された旨が記されています。
<普門品供養塔>
馬頭観音が陽刻されていますが、普門品供養塔のようです。
墓地内左手にあります。
(左側面) 享和3(1803)年銘
(右側面) 「奉供養普門品」
<海軍三等火夫伊藤留次郎碑>
墓地正面に聳える、明治28(1895)年12月建立の大きな漢詩文碑です。
漢学者の島田重礼による撰文で、日清戦争における威海衛の戦いで戦死した水兵・伊藤留次郎について漢文で記しています。
伊藤留次郎の先祖が伊藤嘉兵衛だった関係で、この場所に碑が建てられているのだと思います。
「海軍三等火夫伊藤留次郎碑」(「篁村遺稿」島田篁 大正7年)
国立国会図書館デジタルコレクションに漢文全文がありました。