Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 江戸の暮らし

  ○ 山王祭
  ○ 神田祭
  ○ 町入能


山王祭

 山王権現(現:日枝神社)は、太田道灌が江戸に築城する際、鎮護の神として川越の山王社を勧請し、
 その後、徳川家康も山王権現を城内鎮守の社とし、将軍家や江戸城の守護神として手厚く保護したため、
 6月15日の例祭である山王祭も将軍が上覧する「天下祭」となりました。
 山車の第1番の大伝馬町は諫鼓鶏(善政が行われ、天下泰平の象徴)、第2番の南伝馬町は山王権現の使いである御幣をかついだ猿と決まっていました。
 神田祭も一番諫鼓、二番猿は同じですが、鶏や御幣の色が異なりました。
 山王祭と神田祭は、氏子の負担軽減のため、天和元(1681)年以降は、1年ごとに交代で行われるようになりました。
 現在、西暦の偶数年に「山王祭」、西暦の奇数年に「神田祭」が行われます。

「江戸名所図会 六月十五日 山王祭 其一」

 挿絵には「我等まで 天下まつりや 土車 其角」とあります。

  

 其二と其三を連結しています。
 日本橋川が左右に流れています。
 日本橋川左岸を行く行列は、「はこさきはし」を渡り、「湊橋」を渡り日本橋川右岸に出て、
 「れいがんばし」を渡って、日本橋川右岸を進んでいます。
 神田川左岸湊橋手前に神輿が一之宮、二之宮、三之宮と見えます。
 其二の左上に「薬師堂」が見えます。其三の右上に山王御旅所が見えます。
 画面いっぱいに大行列が描かれています。

  

<白象の曳物>

 其二の右手に、麹町のはりぼての白象の曳物が見えます。
 象のそれぞれの足には、人間の二本足が見えるので、人間4人で動かしているようです。

   

「東都歳事記 六月十五日 山王御祭礼 其二」

 象が歩いています。象の足には、人間の足が見えます。

   

「千代田之御表 山王祭礼上覧」(楊洲周延)

 象の曳物は、大きくて半蔵門を半分しか入らず、半「象」門といった洒落もありますが、
 こちらは、江戸城内で将軍の上覧です。

  

「江戸風俗十二ケ月之内 六月 山王祭」(楊洲周延 明治22年)

 第2番の南伝馬町の猿に続いて、白象の曳物が見えます。

    

「新板車つくし」(重宣 安政2(1855)年)

 「新板車つくし」というおもちゃ絵に「出し物うし車」が描かれています。

  

「名所江戸百景 糀町一丁目山王祭ねり込」(広重)

 三王祭の大行列が、江戸城に練り込む場面を描いています。
 江戸城への「練り込み」は、半蔵門から入り、竹橋から出ました。
 先頭は諫鼓鶏、2番手は御幣猿で、五色の諫鼓鶏は一番乗りで城内に入っているはずが、御幣猿の方が先に半蔵門をくぐろうとしています。
 また、諫鼓鶏の羽の色は神田祭では「白」、山王祭では「五色」ですが、描かれているのは五色ではなく白の諫鼓鶏です。
 広重が間違って描いたはずはないので、意図して描いているのでしょう。

 当時は江戸幕府の行事を描くことは禁止されていたので、言い訳用に、正確に描くよりデフォルメを多用しているのかもね。
 山王祭りでの諫鼓鶏の羽の色が五色なのは将軍の命令によるものなので、これも言い訳用に白く描いているかと思えます。
 構図的にも、本来は江戸城内に入っている天下泰平の諫鼓鶏をあえて描いているのでなないですかね。
 この絵をみると「名所江戸百景 筋違内八ツ小路」に思い当たります。
 筋違御門を入って来た行列が、八ッ小路を横切っているところが描かれており、これを見た瞬間には、将軍の寛永寺への墓参帰りと思ってしまいますが、
 行列には多くの女性のお付を描いており、駕籠の主は女性を主張しているようです。
 これも、将軍の行列は描いていませんとの言い訳かもしれません。

    

「月百姿 神事残月 旧山王祭」(月岡芳年 明治19年)

 青空に月が描かれています。
 手前左には、十番の加茂能人形の山車が見えます。右奥に番の諌鼓鶏の山車が見えます。
 諌鼓鶏は、幕府に遠慮する時代ではないものの、なぜか五色ではなく白です。

  

「東都名所 東都霞ケ関山王祭諌込ノ図」(広重)

 霞ヶ関坂を下る「山王祭」の「山車行列」が描かれています。

  

「江戸名所百人美女 山王御宮」(豊国・国久)

 「手古舞(てこまい)」が描かれています。
 手古舞とは、本来、山王祭や神田祭において、山車を警護した鳶職のことで、
 その後、手古舞の衣装を着て女性たちは練り歩きました。

   

「江戸自慢三十六興 日吉山王祭り子」(広重・豊国)

 「手古舞」が描かれています。

  


神田祭

 令和5(2023)年の神田祭は5月11日〜17日です。

 神田明神では、明治天皇が行啓する際、逆心の平将門が祀られているのはあるまじきこととして、
 明治7(1874)年に平将門は御祭神からはずされました(昭和59(1984)年に復権)。
 これに反発した神田っ子は将門に関係ないお祭りなど行う必要がないとして神田祭の開催をボイコットしました。
 明治17(1884)年、久しぶりに行われた神田祭は、将門台風によりメチャクチャになりました。
 翌日の「時事新報」(福沢諭吉主筆)は、コラムで「将門様の御立腹」と説きました。
 太陰暦の9月15日から太陽暦の9月15日に実施されたため台風シーズンに当っていました。
 その後、明治23年〜24年にはコレラの流行がありました。
 9月という時期が悪いと、台風・疫病流行の時期を避けるため明治25(1892)年の神田祭からその斉行は5月に移されました。

「江戸名所図会 神田明神祭礼 其一〜其四」

  其一〜其四を連結しています。大行列のほんの一部分です。

  

「東都歳事記 九月十五日神田明神祭/其二飯田町」

 其二に諫鼓鶏が見えます。

   

「神田大明神御祭図」(歌川貞重)

 一番山車は、太鼓の上に諫鼓鶏がのっています。

   

 大鯨の曳物が見えます。鯨は潮を吹き、波まで用意されていて、手が込んでいます。

  

「東京神田神社祭礼之図」(一鵬斎芳藤 明治9年)

 遠景の「神田神社」から延々と山車の列が続いています。
 橋上には、左から「六番」、「七番」、「八番 須田町」、「九番 連雀町」の山車が見えます。
 進行の位置関係がよくわかりませんが、右手遠景に「一番」「二番」が見えます。

   

「千代田之大奥 神田祭礼上覧」(楊洲周延 明治28年)

 千代田之大奥は、江戸時代には描けなかった大奥を描いた楊洲周延の作品です。
 こちらの「神田祭礼上覧」では、先頭を行く山車の「大伝馬町」の幟と、太鼓の上に諫鼓鶏が見えます。

   

「江戸名所百人美女 神田のやしろ」(豊国・国久)

 これから神田祭の踊りに参加するようです。

   


町入能(まちいりのう)

 江戸幕府は、将軍宣下、跡継ぎの誕生などの大きな祝儀や重要な法事で、能楽を催しました。
 町民も初日または最終日には,能を拝見することが許されました。これが「町入能(まちいりのう)」です。
 参入のときに傘をもらい、退出のときに酒と菓子などを与えられ、ほとんど無礼講で、町民はこぞって拝観に出かけました。

「千代田之御表 御大礼之節町人御能拝見」(楊洲周延 明治30年)

 町入能の、ほとんど無礼講状態で傘をもらっている光景が描かれています。

  


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