○ 共同便所
○ 妻恋こみ坂
○ 落とし紙
○ 汲み取りのシステム
○ 汚穢屋/汚穢舟
○ 馬糞の回収
○ 馬での下肥運搬
長屋の共同便所は、江戸では「惣後架(そうこうか)」、京阪では「総雪隠(そうせっちん)」と呼ばれていました。
江戸の便所の戸は下半分だけです。便所は瓶が埋められ、踏み板が渡されていました。
糞尿は下肥として、大家の安定収入となりました。
「守貞謾稿」(喜田川守貞(季荘))
長屋の共同便所です。左が江戸、右が京阪の便所です。
<共同便所実物大レプリカ>(東京都水道歴史館)
東京都水道歴史館(文京区本郷)では、長屋が実物大で再現されていて、共同便所も再現されています。
<屎別所>
「北斎漫画」(北斎)に掲載の便所の絵です。
用を足す武士が描かれています。便所の外では3人の家来が臭そうに待っています。
便所の壁には、相合傘の落書きが見えます。
「北斎漫画」を模写しています。
坂の下がゴミ捨て場だった、湯島にある芥坂(ごみさか)の途中です。
遠方に上野が見えます。
「あけはなし たれかけ 無用」の貼り紙も北斎漫画と同じです。
便所の落書きは、北斎漫画は相合傘だけですが、広景は、人の顔と男性器を加えています。
○芥坂(ごみざか)(立爪坂) 文京区湯島3-6-10
歌川広景が描いた、妻恋のゴミ坂(立爪坂)を見てきました。
坂の下がゴミ捨て場だったので、芥坂(ごみざか)です。
坂が急で、爪先を立てて上るという意味で、立爪坂ともいいます。
妻恋坂の中ほどを北に上る細い坂で、下と上の部分は石段になっています。
【下の石段】
【上の石段】
【上がり場】
現在はビルに遮られ、上野公園は全く見えません。
「江戸切絵図」
神田明神社の裏に、「ツマコヒサカ」「妻戀稲荷」「立爪サカ」が見えます。
便所で使用したのが浅草紙の落とし紙です。浅草紙は、江戸の再生紙です。
主生産地は浅草、山谷、千住、本木・梅田と北上していきました。
ちなみに「ひやかし」は浅草紙の製造過程に由来し山谷で生まれました。
(参考)「紙すき碑」「ひやかし」
「江戸名所道化尽 七 新シ橋の大風」(歌川広景)
厠には、落とし紙は用意されていなかったので、人々は再生紙の浅草紙を持ち歩いていたようです。
橋の上で女性が浅草紙を吹き飛ばされています。
肥桶を担いで糞尿の回収に回ったのが、汚穢屋(おわいや)で、
買い取られた糞尿は、汚穢舟(おわいぶね)に積まれて近郊の農村まで運ばれました。
汚穢舟、汚穢屋(人力)による下肥の輸送経路が描かれてがいます。
汚穢屋は天秤棒で肥桶を担ぎ、肥柄杓を携えて糞尿の回収に回ります。
「汚穢屋」(「世渡風俗圖會」(清水晴風))
<コエタンゴ(肥桶)/コエビシャク>(足立区立郷土博物館展示)
肥桶は天秤棒で担ぎます。
一つの桶には2斗、およそ36リットル入り、重さは一荷で80キロほどです。
肥桶には蓋がついていますね。
<明治以降は糞桶に蓋をつけること>
「画解五十余箇条」(昇斎一景 明治6(1873)年)
明治初期の軽犯罪法令の絵解きをしたのが「画解(えとき)五十余箇条」です。
四十一条は、蓋のない糞桶で搬送してはダメとあります。
コメントは、「おっとあぶない くさい」
江戸時代は蓋のない桶で下肥を運ぶのが一般的だったということでしょう。
道端に商品がこぼれおちたことと思います。
土手に柳が植えられており、道端では古着を売っているので、柳原堤の光景かと思います。
下肥とは関係ありませんが、五十七条は、三尺以上の長綱で牛馬を曳くことを禁止しています。
元ネタだと、場所は墨田堤です。
「東都花暦 隅田堤之桜」(英泉)
一景の元ネタかと思います。
明治時代だと条例違反が2点あります。
長綱で馬を曳いていることと、下肥の桶に蓋をしていません。
「汚穢舟」(「江戸名所道戯尽 三十三 柳島妙見の景」(歌川広景)
柳島妙見の料理茶屋「橋本」の船着場の光景です。
船着場から上がろうとした女性客が転んで、隣の汚穢舟へ転げ落ちています。
船頭は鼻をつまんでいます。
「橋本」は高級料亭だったので、下肥は高く買い取られていたことでしょう。
「汚穢舟」(「東京名所三十六戯撰 柳原元和泉はし」(昇齋一景 1872年))
神田川の和泉橋辺りの柳原での光景です。
女性が舟に乗ろうとして、たぶんこぼれていた汚物に滑って、お隣の汚穢舟に転げ落ちています。
左端の男性は臭くて鼻をつまんでいます。
右端の女性は着物の袖で顔の下をおおい、男性は扇子で顔の下をおおっています。
下肥は、長屋より武家屋敷のほうが高く買い取られ、神田川は汚穢舟が目立った東京の名所でしたか?
「江戸名所百景 四ツ谷内藤新宿」(広重)
馬糞が道筋に落ちています。
「北斎漫画」では馬糞を回収しています。馬の糞も下肥です。
「馬糞浚(まぐそさら)ひ」(世渡風俗図会 清水晴風)
内藤新宿は甲州街道筋で、馬糞が多く有名でした。
馬は牛のように反芻しないので繊維分が多く、良い肥料として売れました。
明治時代は馬車鉄道の馬糞浚いがありました。
「江戸名所道戯尽 十五 霞が関の眺望」(歌川広景)
坂の上から。東京湾が見えます。
下肥は馬でも運ばれていたようです。その馬が暴れて下肥をぶちまけています。
武士は扇をあおいて、鼻をつまんでいます。女性は袖で鼻を覆っています。
霞が関は武家屋敷の地だったので、下肥は高く買われたことでしょう。
「名所江戸百景 霞かせき」(広重)
広重の同じ光景(下肥なし)の元ネタでしょう。