Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 江戸の暮らし 五節句

  ○ 五節句
  ○ 上巳の節句(3月3日)
  ○ 端午の節句(5月5日)
  ○ 十軒店跡 (人形市)
  ○ 嘉祥の儀 (6月16日)
  ○ 七夕   (7月7日)
  ○ 重陽の節句(9月9日)


五節句

 江戸時代、幕府は「五節句」の式日を定めていました。
 「五節句」は、明治6(1873)年に廃止されました。

 ・人日の節句(七草の節句)(1月7日)
 ・上巳の節句(桃の節句) (3月3日)
 ・端午の節句       (5月5日)
 ・七夕(しちせき)    (7月7日)
 ・重陽の節句(菊の節句) (9月9日)


上巳の節句(桃の節句)(3月3日)

「江戸名所図会 十軒店雛市」

 十軒店(じっけんだな)(現在の日本橋室町3丁目の中央通りの両側)の雛市が描かれています。
 挿絵には、「内裏雛人形天皇の御宇かとよ 芭蕉」とあります。
 ヨシズ屋根の仮設店舗の「出小屋」も並んでいます。

  
 

「熈代勝覧絵巻」

 十軒店部分の抜粋です。
 雛人形売りの路頭の茅掛け小屋の始端にお茶漬け屋の「あさひ(朝日)。
 続いて薬種問屋(藤木)、帳面問屋(槌屋)、二八蕎麦饂飩屋(三河屋)。
 そして雛人形問屋(万屋)、雛人形問屋(藤屋)と続きます。

   
 

「画本東都遊 十軒店雛市」(北斎)

 北斎が十軒店の雛市を描いています。

 
 

「江戸名所百人美女 十軒店」(豊国・国久 安政5年)

 雛飾りの準備です。

  
 

「おもちゃ絵 雛人形」(一竜斎国盛 安政4年)

 江戸時代は、向かって右側の上席の上手に男雛が飾られています。
 大正天皇、皇后が式典の際、西洋式に並び方を替えたことを機に、お雛様も位置を替えたといわれています。

  
 

「五節句の内 ひな祭」(歌川貞房)

 向かって右側に男雛が飾られています。

   
 

「千代田之大奥 雛拝見」(楊洲周延 明治29年)

 大奥では、3月1日から4日まで大奥の御座之間と御台所の御休息之間に雛人形が飾られたようです。
 市井の雛人形は大きさが規制されていましたが、見物の女性たちと比べると大きいですね。
 女雛が右手に飾られています。江戸市井の飾り方と逆なのが興味深いところです。

  
 

「十軒店の雛市」(日本之名勝 明治33年 国立国会図書館蔵)

 明治の「十軒店の雛市」の賑わいです。

  


端午の節句(5月5日)

「十軒店冑市」(東都歳事記)

 十軒店の冑市が描かれています。鯉のぼりがあがっています。

  
 

「端午市井図」(東都歳事記)

 粽(ちまき)売りと鯉のぼり売りが見えます。犬に絡まれた男が柏餅を道に落としています。
 粽は中国の伝説が起源となっています。
 柏餅を食べるのは、柏の葉は新芽が育つまでは古い葉が落ちないことから、子孫繁栄という縁起をかついだもので江戸時代からです。
 3人の子どもは、菖蒲刀でチャンバラごっこです。
 店では、武者人形、長刀、幟、吹き流しなどを売っています。
 鍾馗(しょうき)様の幟も見えます。

    
 

「名所江戸百景 水道橋駿河台」(広重)

 鯉のぼりが登場したのは江戸時代からで、中国の「登竜門」の鯉の故事によります。
 子どもの立身出世を願う親の思いがこめられ揚げ始められました。鯉のぼりを揚げるのは町人の文化でした。
 武家は、端午の節句には家紋の幟や吹き流し、鍾馗(しょうき)の幟を上げました。

  
 

「豊歳五節句遊 端午の節句」(香蝶楼国貞)

 女性は金太郎の飾り人形を持っています。
 足元には、鍾馗(しょうき)様を描いた幟と鯉のぼりが見えます。

   


十軒店跡 中央区日本橋室町3-2-17

 コレド室町テラスの地下へのエスカレーター横に説明板「十軒店跡」があります。

  
 

<十軒店跡>

(説明板)
「十軒店跡
  所在地 中央区日本橋室町三丁目二番・四番地域
 十軒店は、日本橋から北に向かう大通りに面する、本石町二・三丁目と本町二・三丁目との間に挟まれた小さな両側町でした。町名は江戸時代初めに商家が十軒あったことにちなむとされます。
 三月の上巳(桃)の節句には内裏雛・禿人形・飾装具等を、五月の端午の節句には冑人形・鯉のぼり等を商う人形市が立ち、十二月の歳暮の破魔屋矢・羽子板等を商う市とあわせて、大変なにぎわいをみせていました。
 特に上巳の節句の際には、江戸市中に立った他の雛市と比べても、そのにぎわいは際立っていました。葛飾北斎の『画本東都遊』には、店先に小屋掛まで設けて繁盛している様子が描かれています。
 明治維新後、十軒店の人形市は急速に衰えてしまいます。この地は本石町十軒店と称されていましたが、明治四十四年(一九一一)に十軒店町となり、昭和七年(一九三二)、旧日本橋室町三丁目に編入されました。(葛飾北斎『画本東都遊』掲示)
  平成三十一年三月  中央区教育委員会」

    

    
 

十軒店跡石碑 中央区日本橋室町3-2-18 海老屋美術店前

 海老屋美術店前に、令和2(2020)年3月建立の真新しい石碑「十軒店跡」があります。

(碑文)
「十軒店跡
 この地は江戸時代より十軒店と呼ばれ正月の羽子板・破魔弓、三月の雛人形、五月の武者人形など節句用品を商う店が軒を連ねて時季には盛大な市が立った。
原舟月や川端玉山ら江戸の人形師に加え、近代には永徳齋、玉翁などが名工として知られたが関東大震災と戦災により多くの店が焼失、最後まで残った玉貞人形店も平成十年代に閉店した。
昭和七年、十軒店町は室町三丁目に編入された。日本の人形文化を育んだ町、それが十軒店であった。
  令和二年三月三日」

    
 

<木彫立雛>

 木彫立雛が展示されています。

   


嘉祥の儀(6月16日)

 式日ではありませんが、「嘉祥の儀」(6月16日)があります。
 16種類のお菓子やお餅を神前にお供えして、祈願します。
 江戸幕府では、江戸城大広間に菓子を並べ、大名・旗本へと菓子をふるまいました。
 現在の「和菓子の日」は嘉祥の儀にちなんでいます。

「千代田之御表 六月十六日嘉祥ノ図」(楊洲周延 明治30年)

  


七夕(しちせき)(7月7日)

「武城七夕」(東都歳事記)

 高さを競っていた短冊竹は、家々の屋根よりもはるかに高く、立ち並んでいます。
 「家々冷素麺を饗す。」とあり、七夕には素麺を食べる習慣が定着していたことがうかがえます。
 挿絵には、三つの橋が見えます。手前から常盤橋、一石橋、呉服橋の光景です。

  
 

「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」(広重)

 広重が住んでいた家からの眺めだろうと言われています。物干し台に浴衣が干されています。
 高さを競っていた短冊竹が風にたなびいています。
 様々な飾りつけが翻っています。紙に描いた西瓜や鯛も見えます。

  
 

「富嶽百景 七夕の不二」(葛飾北斎)

 短冊竹が物干し台に立てられています。

  
 

「江戸年中風俗之絵」(橋本養邦)

 「江戸年中風俗之絵」(橋本養邦)から、七夕部分の抜粋です。
 スイカもぶら下がっています。

  
 

「江戸風俗十二ヶ月之内 七月七夕筋違見附八辻」(楊洲周延 明治22(1889)年)

 筋違見附八辻における七夕の光景です。柳原堤の向こう側には、屋根の上より高く、赤い幟が多数ひらめいています。
 女性は日傘をさし、屋台では白玉水を売っています。暑さが伝わってきます。

   
 

「江戸名所道戯尽 十三 鎧のわたし七夕祭」(歌川広景)

 鎧の渡しの七夕の光景です。七夕飾りをつけた竹が風に大きく揺れています。
 風で筆の七夕飾り(習字の上達の願い)が渡し船の女性の股間に落ちています。
  
  
 

「千代田之大奥 七夕」(楊洲周延 明治29年)

 大奥での七夕の風景です。
 短冊竹は江戸城よりも高くなんてことはなく、いたって普通の高さです。

  
 

「五節句之内 文月」(暁翠 明治27年)

 明治の頃の七夕です。遠景に「十二カイ」と記載があり、浅草十二階が見えます。
 この頃も飾竹は屋根より高く描かれています。

   


重陽の節句(菊の節句)(9月9日)

「豊歳五節句遊 重陽の節句」(歌川国貞)

  
 

<染井植木の里>

 染井の観菊が賑わいました。
 こちらの中で記載「染井植木の里


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