「播磨坂さくら並木」に、説明板「高橋泥舟 山岡鉄舟 旧居跡」が設置されています。
実際の旧居跡は、この場所から北の一角に並んでいました(小石川5-1-8)。
高橋泥舟と山岡鉄舟は、江戸無血開城の立役者です。
近くには「石川啄木終焉の地」があります。
(説明板)
「高橋泥舟(でいしゅう)(1835〜1903) 山岡鉄舟(てっしゅう)(1836〜1888) 旧居跡
小石川五丁目1
下図の高橋・山岡は、それぞれ高橋泥舟・山岡鉄舟の屋敷である。高橋家は享保5年(1720)、山岡家は文化8年(1811)以降この地に移り住んだものと思われる。
泥舟は槍術の大家山岡静山の弟で、母方の実家である高橋家を継ぎ、25歳のとき幕府講武所師範となる。鉄舟は剣術を北辰一刀流の千葉道場に通い、槍を静山に習った。鉄舟は旗本小野家の出身であるが、静山の妹英子と結婚し、山岡家を継いだ。
二人は、文久2年(1862)12月、清河八郎 の呼びかけで、近藤勇らが参加し結成された浪士隊の取締役を幕府から命ぜられ、上洛するが、清河の攘夷尊王の策謀が発覚し、江戸に帰府した。
慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、官軍が江戸に迫ると、泥舟は前年に大政奉還した元十五代将軍徳川慶喜に恭順を説き、身辺警護に当った。鉄舟は勝海舟の使者として、駿府の官軍参謀の西郷隆盛に会い、江戸城無血開城への道を開いた。
海舟、泥舟、鉄舟を維新の三舟と呼び、維新の重要な役割を担った。
文京区教育委員会 平成26年3月」
「東都小石川絵図」(嘉永7(1854)年 国立国会図書館蔵)
「東都小石川絵図」からの抜粋です。
水戸徳川家分家の常陸府中藩松平播磨守の上屋敷「松平播磨守」と、山岡家、高橋家の抜粋です。
現在は、戦後できた播磨坂(環状3号線)が播磨守上屋敷跡を貫いています。
箪笥町の箪の字を分解して上下に分けて、竹早としたといわれます。
(説明板)
「旧町名案内
旧 竹早町 たけはやちょう
(昭和41年までの町名)
もと、小石川村の内であった。寛永年中(1624〜44)幕府箪笥玉薬同心(武具弾薬を取扱う幕府の役人)の屋敷となり、後に町屋が設けられて箪笥町と称した。
明治2年、同心町の一部、鷹匠町、安房殿町を併せて竹早町とした。同5年、智光寺門前、光岳寺門前、宮下町飛地などと武家地を併せた。
町名の由来は、旧町名の一つ箪笥町の箪の字を分解して上下に分けて、竹早のよい名としたといわれる。また、昔は竹の多い土地であったからともいわれる。 文京区」