○ 毛長川・伝右川・綾瀬川三川合流点
○ 桑袋ビオトープ公園
○ 綾瀬川の蛇伝説
○ 蛇橋
○ 元蛇橋公園
○ 桑袋記念公園
○ 桑袋大橋
桑袋ビオトープ公園の裏門から出ると、綾瀬川です。
<三川合流点>
奥が綾瀬川、手前から伝右川、毛長川が流れ込みます。
三川合流点は、ここが東京23区内とは思えない光景です。
<伝右橋> 足立区花畑7丁目〜花畑8丁目
伝右川最下流の伝右橋です。
下流には国土交通省の伝右川排水機場があります。
<鷲宮橋> 足立区花畑7丁目
毛長川最下流の鷲宮橋です。
桑袋小学校跡地に2005年5月に開園した足立区立の公園です。
園内に「あやせ川清流館」があります。
蛇橋にまつわる伝承は以下の通りです。
源義光に関する伝承と、名主新八に関する伝承があります。
・足立区HP:足立の昔話 名主新八と蛇橋
「昔、花又村と大曽根村の間を綾瀬川が流れていました。小菅にしょうぐん家のやしきができたとき、花又村の岸にていぼうが作られました。そのため大雨の後は大曽根村の方ばかりに水が流れてくるようになりました。ある夏、こう水になったとき、大曽根村の名主の新八が村をすくうため、ていぼうをこわして水を小菅側に流そうとしました。これにおこった花又村の人たちは新八をていぼうの上でころしてしまいました。新八の母は悲しんで「新八や、ヘビになれ」とさけび、自分も身投げしてしまいました。
それから村人が川のそばを通ろうとすると、大木がとつぜん大きなヘビとなって動き出しました。これは新八親子のせいだと思った村人は石ひをたてて、くようしました。その近くにかけられた橋を「へびばし」とよぶようになったということです。」
・八潮市HP:八潮のむかしばなし(十七話)蛇橋
「江戸時代の中ごろまでの綾瀬川は、後谷村から西へ大きく蛇行し、大曽根村へ深くくいこんでいた。足立郡側は、幕府の直轄地で、小菅村には将軍様の鷹狩りのお休み所の小菅御殿があり、堤は、厳重につくられていた。反対側の大曽根村は、森川下総守様の領地で、よく土手がきれ、洪水にあったそうな。
秋の収穫のまぎわに、村人は、豊年万作を祝う秋祭りの準備と獅子舞いの練習に余念がなかった。反対に大曽根の名主新八だけは、秋のとり入れ前にうかぬ顔をして、村めぐりをしていた。
ついに名主新八が心配する長雨がきて、川幅のせまい綾瀬川は大増水し、いまにも氾濫しそうになった。
名主新八は、大曽根村を水から救うため、獅子舞いの獅子頭をかぶり、腰に長い布をたらし、竜にみせて花又村におよいでいった。
上野輪王寺領の花又村の村人は、大曽根村が決壊寸前なので、今年も土手の心配がないと安堵していた。ところが、一匹の竜が大曽根村からうねりながらわたってくる。一目散ににげ、遠くのほうで見ていると、竜が土手を切りだした。将軍様からお預かりしている土手が切られたら一大事と、とって返すと、獅子頭をかぶっているのは大曽根村の村人である。とんでもない野郎だ。なぐるやけるやで、片目をえぐり、濁流の中へたたきこんだ。花又村が、大出水となり、幕府の役人が調べてみると、大曽根村の名主が堤を切ったとのこと、名主の家は、竹でかまえられてしまった。この悲惨な出来事に老母は気が狂い、毎晩「新八や蛇になれ、わしも蛇になる。親子とも大蛇になり、恨みをはらすのだ。」とさけびながら綾瀬川に身を投じた。その後、二匹の大蛇はふきんをあばれまわり、村人さえもよりつかなくなった。
あるとき、江戸の役人浅田近右衛門と妹のしづが船にのり、大曽根村へさしかかると、片目の蛇と白い蛇が浅田近右衛門にたちむかってきた。近右衛門は刀を抜き、切ってすてようとし立ち上がると、船が転覆し、妹しづがゆくえ知れずとなった。いろいろ調べると先のような話で、このことを将軍吉宗様に報告し、金五両を下賜され、「蛇橋」「蛇塚」をつくり供養したという。それから蛇はでなくなったそうな。」
・埼玉県HP:綾瀬川にまつわる伝説「蛇橋」
・八潮市HP:八潮のむかしばなし(四話)源義光と綾瀬川
「むかし、なんでも源義家が東国に征伐にいったとき、合戦で難儀したそうな。
義家の弟に源義光がおって、兄じゃの応援に向かうとちゅう大曽根をとおりかかった。義光はちょうど綾瀬川のところで道にまよったんだと。
そこで休んでいたところ、北から南に流ながれていた川の水が、急に南から北へ流れをかえたそうな。
川がいきさきをおしえてくれたというので、その方向へ出陣し、兄の義家をたすけ、大勝利をおさめたんだと。
戦からの帰り道みち、出陣の方向をおしえてくれたところにたちより、橋をかけたそうな。その橋が蛇橋だそうな。」
蛇橋は老朽化のため、平成2(1990)年9月に閉鎖、平成3(1991)年に撤去された木橋です。
桑袋記念公園内の記念碑に蛇橋の由来が記載されています。
<蛇橋親柱> 足立区立郷土博物館
足立区立郷土博物館に「蛇橋」の親柱が保存されています。
「蛇橋」「へびばし」
「昭和三十九年五月三十日」
(説明板)
「大曾根村(現・埼玉県八潮市)名主新八母子の悲劇を伝える<蛇橋>は、
新桑袋大橋開通に伴って、去る平成2年9月に閉鎖され、
寛永年間以来といわれる歴史を閉じた。」
昭和46(1971)年10月に撮影の蛇橋(足立区立郷土博物館)
<蛇橋架橋場所>
かつて、蛇橋は、毛長川・伝右川・綾瀬川三川合流点の綾瀬川上流に架かっていました。
昭和33(1958)年航空写真(足立区立郷土博物館)
航空写真に蛇橋が見えます。
(左岸)
蛇橋が架かっていた綾瀬川左岸です。
対岸下流には「桑袋ビオトープ公園」が見えます。
(右岸)
綾瀬川右岸から左岸を見たところです。
左岸の左手に「元蛇橋公園」があります。
公園の西に、蛇橋が架かっていたことから命名された元蛇橋公園です。
雑草に覆われ遊べない公園でした。
<解散記念碑(桑袋土地区画整理組合)>
桑袋土地区画整理組合の大きな解散記念碑があります。
碑裏に「蛇橋の由来は桑袋記念公園の記念碑に記載されています」とあり、
次に桑袋記念公園に向かいます。
桑袋土地区画整理組合の大きな竣工記念碑記念碑の裏に「蛇橋の伝承」が記載されています。
雑草で覆われ遊べない公園でした。バスケットゴールが設けられ、そこは雑草はありませんでした。
<桑袋土地区画整理組合 竣工記念碑>
(碑裏)
「蛇橋の伝承
綾瀬川に架けられていた、今はなき蛇橋にまつわる悲しい昔話が、足立と八潮に語り伝えられている。
綾瀬川は治水の難しい川でよく氾濫したが、江戸に近い足立川(側)の堤は高く、八潮川(側)は低かった、ある時、増水で村の洪水を心配した大曾根の名主新八が鎮守の獅子頭で身を隠し対岸の堤を切って水争いとなり、哀れな最後を遂げてしまった。八潮では、この時獅子頭が花又に奪われたといい、花又ではこの水争いの死者を供養して獅子頭を奉納するようになったという。
堤を切ったため、幕府は厳罰に処して新八の家を取り潰したが、この悲運で狂気した母親が「新八や、蛇になれ」と叫んで川に身を投げた。その後、この怨念か、二匹の大蛇が村人をおびやかしていると、八代将軍吉宗の耳にも達した。こうして蛇橋と蛇塚が作られ供養した。
蛇の話は、綾瀬川流路変更に結びつけた寓話だろう。
平成七年五月吉日建立
桑袋土地区画整理組合役員(以下略)」
桑袋大橋は平成2(1990)年に蛇橋の上流に架橋されました。
橋には、ヘビをかたどったモニュメントや、伝説をイメージした飾りがつけられています。
伝説を語る欄干の装飾となっています。
桑袋大橋上流 桑袋大橋下流