Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 ○ 綾瀬稲荷神社
 ○ 綾瀬川の合歓の木


綾瀬稲荷神社 足立区綾瀬4-9-9 HP

 金子五兵衛が開発した五兵衛新田の鎮守として、慶長19(1614)年に創建され、稲荷社と呼ばれました。
 明治7(1874)年に五兵衛神社に改称、昭和42(1967)年に現在の綾瀬稲荷神社に改称しました。

<五兵衛新田>

 武蔵国入間郡金子村(現埼玉県入間市)から入植した金子五兵衛が五兵衛新田を開発しました。

  

<一の鳥居/社号標>

 鳥居は西向きに立っています。京都の「伏見稲荷大社」の方角を向いて創建されています。

    

<手水舎>

  

<二の鳥居>

 文化7(1810)年建立の鳥居です。

    

<神楽殿>

  

<社務所>

  

<狛犬>

  

<落語狛犬>

 平成12(2000)年、落語家・三遊亭圓丈氏(2021年11月逝去)によって奉納された落語狛犬です。
 座布団に座り、扇子、手拭と茶托が置かれています。
 狛犬の背中には小さく「くずし橘」の家紋が入っていて、尾が扇の形をしています。
 お客さんの反応を聞くため耳が開いています。

     

     

   

<拝殿/本殿>

 拝殿は昭和57(1982)年の造営で、覆屋の中に天保14(1843)年の本殿があります。

     

<燈籠型庚申塔> 足立区文化財

 本殿の後ろから見ると、わずかに安永8(1779)年銘の燈籠型庚申塔が見えます。

  

<御神木>

   

<三峯神社>

 一之鳥居をくぐってすぐ左手に「三峯神社」があります。
 脇に石塔が三基あります。

    

<弁天社>

  

<慰霊之碑>

 昭和29(1954)年建立の「慰霊之碑」があります。

    

<富士塚> 足立区文化財

 昭和2(1927)年に築造(移築)の富士塚です。
 山頂に「浅間大神」の石祠。

     

     

     

    

(説明板)
「綾瀬稲荷神社富士塚
 この富士塚は、「綾瀬富士」または「五兵衛富士」と呼称され、山容が秀麗であると紹介されることがつとに多い。築造年は、昭和二年。富士北麓からボク石(溶岩塊)を西新井駅まで貨車で輸送し、さらに馬車で運び入れて築山した。現在の山高は、約三・五メートル。御頂上には御頂上には浅間社(昭和五十二年再造)が奉斎され、山中には烏帽子岩や小御嶽も祀り、山麓には、胎内窟がある。所謂富士塚築造の五大要素を完備Lた正統な富士塚である。昭和三十六年・昭和五十二年・平成二十六年に修築・拡張整備工事を施し、今仰ぎ見上げる御山となっている。
 富士塚を築造したのは、麻布の包市郎兵衛が興した、山包講の枝講である「山包丸渕講」で、現、山包綾?講。綾?地域の古称に由来する講名で、講紋は包の字を丸で囲んだり、山の字を丸で囲んだ紋を使用する。講名は戦後、山包・五兵衛町講を経て現講名になった。山包の元講は、後年麻布から浅草橋に本拠を移し、更に、元講の証である、富士講箪笥(三十一日之巻を始め、御三幅など講祭具一式を収納。文政十年<1837>製)が丸渕講に移讓されて同講が元講となった。現在では二十三区内唯 一の山包講だが、千葉県の市原・館山には多く残る。
 富士塚と祭具一式は、江戸時代の富士講信仰を伝えるものとして貴重であり、それぞれ足立区登録有形民俗文化財となっている。
  令和三年三月  東京都足立区教育委員会」

  

<出羽三山供養塔>

 出羽三山供養塔「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」がありました。
 紀年が読みとれませんが、湯殿山が中央にあるので、江戸時代の造立と思われます。
 十条富士神社や西之宮稲荷神社、安養寺の各富士塚にも出羽三山供養塔がありました。
 富士信仰と出羽三山信仰が両立している地域もあったことが伺えます。

     


綾瀬川の合歓の木

<合歓の木> 綾瀬稲荷神社

 綾瀬稲荷神社の鳥居をくぐってすぐのところに合歓の木が植樹されており、説明板が掲示されています。

(説明板)
 「令和の御大典記念
  合歓の木(ネムノキ)令和元年10月13日植樹
 選定理由:
 「江戸名所花暦」の長谷川雪旦挿絵「綾瀬川合歓木花」に
 江戸時代中頃の文人、橘(加藤)千蔭が詠んだ
 「ほのみゆる うすくれなゐの ひとむらは あやせのきしの ねむ乃花かも」
 の短歌が添えられている。
 【通釈】「ほのかみ見える薄紅のひとかたまりは、綾瀬の岸に咲く合歓の花なのだなあ」
 歌川広重の浮世絵や小林一茶の俳句にも詠まれております。
 綾瀬川河岸の合歓の木は江戸の人々に花名所で
 知られていたようで選定致しました。
   綾瀬稲荷神社総代会」

   

「綾瀬川合歓木花 江戸名所花暦」

 「橘千蔭
  ほのみゆる うすくれなゐの ひとむらは あやせのきしの ねむ乃花かも」

 「花又村の川筋、小菅御殿地の跡の辺 いにしへはおほかりしが、今はここかしこにあり・・・。」
 
 花畑町から小菅御殿の跡(現在の東京拘置所)付近の綾瀬川辺りが合歓木の名所だったようです。
 綾瀬川の合歓木は江戸の人々に花名所として知られていたようです。

  

「綾瀬川 絵本江戸土産」(広重)

 「この風景よく人の知る所なり ここに三瀬の橋といふあり むかしは三瀬に分れけん
  その所以を知らずといへども秋はことさら虫の声あるひは月光を称してここに集ふ人少なからず」

  

「綾瀬川鐘ヶ淵 名所江戸百景」(広重)

 綾瀬川の象徴である合歓の木が描かれています。

   

「三十六花撰 東京綾瀬川合歓」(二代広重)

 三十六花撰に、綾瀬川の合歓の木が描かれています。

  

「武蔵百景之内綾瀬川浅草寺」(小林清親 明治18年 Wikimedia Commons

 合歓の木は描かれていませんが、綾瀬川の網越しに富士山と浅草寺が描かれています。
 網には小魚が見えます。

  

「古舟も そよそよ合歓の もようかな 一茶」

 一茶の深川紀行に「小菅川に入る。左右合歓の花盛りなり。」とあり、
 続いて上記の句が記されています。小菅川とは、綾瀬川下流の別称です。

 裏門堰親水水路(足立区西綾瀬1丁目)に掲示されている「一茶と小菅」からの抜粋です。

(説明板)
「(合歓の花)
 古舟も そよそよ合歓の もようかな
 一茶の深川紀行に「小菅川に入る。左右合歓の花盛りなり。」とあり、続いて右の句が記されています。小菅川とは、綾瀬川下流の別称です。歌川広重の江戸名所百景にも描かれ、江戸名所花暦にも、次のように紹介されています。
 「合歓の木」綾瀬川・・・・花又村(今の足立区花畑)の川筋、小菅御殿の跡の辺、いにしえはおほかりしが、いまはここかしこにあり・・・。
 現在の東京拘置所付近の綾瀬川辺りが合歓木の名所であったようです。綾瀬川の合歓木は江戸の人々にも花名所として知られていたようです。
 初夏に小枝の先にうす紅色の長い糸のような可憐な花をつけます。この花をたずねて、風雅を愛する人々が訪れたことでしょう。」

   

「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)

 村尾嘉陵は、文化10(1813)年に鷲大明神に参詣しており、
 「綾瀬・千住・花又村鷲明神詣の記」に地図が掲載されています。
 綾瀬川に様子が描かれています。

  


戻る