中央広場の南に「有栖川宮熾仁親王騎馬像」があります。
旧陸軍参謀本部構内に建立したものを、昭和37年(1962)にこの公園に移設されています。
(説明板)
「有栖川熾仁親王の銅像
有栖川熾仁親王(1835〜1895)は有栖川宮家九代目の親王で、明治維新、西南の役、日清戦役で優れた勲功をたてられました。その間、福岡藩知事や元老院議長、左大臣、近衛都督、参謀総長などを歴任され、明治28年(1895)1月に亡くなられました。
この銅像は大熊氏広作で、明治時代の代表的作品の一つとして極めて価値の高い芸術品です。明治36年(1903)10月10日千代田区三宅坂旧参謀本部構内に建立したものを、昭和37年(1962)3月1日道路拡幅事業の際、ゆかりの深いこの公園に移設しました。」
「最新東京名所写真帖 陸軍参謀本部と有栖川宮銅像」(小島又市 明治42(1909)年)
「京浜所在銅像写真 故有栖川宮殿下銅像」(人見幾三郎 諏訪堂 明治43(1910)年)
「東京風景 有栖川宮銅像」(小川一真出版部 明治44(1911)年)
<有栖川宮記念公園碑>
中央広場の北に「有栖川宮記念公園碑」があります。
(碑文)
「有栖川宮記念公園
位置 港区麻布盛岡町広尾町
面積 三五、六○一・一二平方米
開園 昭和九年十一月十七日
沿革
この地一帯はもと盛岡藩主南部美濃守の下屋敷であったが、明治二十九年有栖川宮家の御用地となり大正二年高松宮殿下がこれを受けつがれた。
殿下は都民の保健に深く心をよせられ多年にわたり小学校の校外教授等に利用させまた一般児童の入園も許しておられたが昭和九年一月御用地の一部を有栖川宮家の記念として本都に御寄付されたのがこの公園である 本都はその御主旨にそい直ちに造園工事に着手同年十一月これを完工し広く都民に開放したものである
東京都」
<僕は少年新聞や>
中央広場に東に「僕は少年新聞や」像があります。
朝倉文夫の次女、朝倉響子女史の作品です。
(台座前面銘文)
「僕は少年新聞や
軽くしごけば新聞の
インキがプンと匂います
大事にかかえて走るとき
マラソン選手のようでしょう
ぼくは元気な新聞や」
(台座背面銘文)
「この像を建てたわけ
毎朝毎晩、私たちの待っている新聞を届けてくれるのは、多くの配達少年です。
雨にも、風にも、負けないで元気に働く少年たちです。
その清純な姿が朝倉響子氏の手によって表現されました。
この像は、少年たちには、仕事への誇りと責任を、
大人には、働く少年たちへもっと愛の想いをと、
呼びかけているのです。
昭和三十三年五月三十日
新聞を配る少年保護育成の会」