○ 赤塚溜池公園(赤塚城外堀)
○ 東京都立赤塚公園城址区(赤塚城跡)
○ 赤塚城二の丸跡/妙見祠(乗蓮寺) ※再掲
かつて農業用水として使用していた溜池が、赤塚城の外堀の跡です。
園内には区立美術館や郷土資料館があります。
赤塚城の主郭跡に設けられた「都立赤塚公園」に隣接しています。
南側にある乗蓮寺(東京大仏)は赤塚城の二の丸跡になります。
<板橋十景>
「板橋十景
平成15年2月に区制施行70周年を記念して区民応募により
「板橋十景」を選定しました。(板橋区)
1.赤塚溜池公園周辺
2.板橋(本町)
3.いたばし花火大会(荒川河川敷)
4.志村一里塚(志村1丁目)
5.石神井川の桜並木(石神井川沿い)
6.松月院(赤塚8丁目)
7.田遊び(徳丸北野神社/徳丸6丁目)
田遊び(赤塚諏訪神社/大門)
8.高島平団地とけやき並木(高島平2・3丁目)
9.東京大仏(乗蓮寺/赤塚5丁目))
10.南蔵院のしだれ桜(蓮沼町)」
<赤塚城跡と徳丸ケ原>
赤塚溜池公園から、赤塚公園への登り口に、説明板があります。
(説明板)
「赤塚城跡と徳丸ケ原
赤塚城跡は、この公園の南の台地上に位置する室町時代の城跡です。現在は、大部分が都立公園となっており、城山、お林山などとも呼ばれています。
ここは、康正二年(一四五六)に千葉自胤(よりたね)が入城したと伝えられ、現在でも空堀や土塁の跡を見ることが出来ます。北、東、西の台地の三方は、自然の谷で区画され、北側の溜池は、それらの谷のしみだし水をたたえています。
城跡の北側に開ける高島平は、江戸時代、徳丸ケ原と呼ばれた原野でした。ここで天保十二年(一八四一)、高島秋帆が洋式の砲術訓練を行ったことが、高島平の地名の由来となっています。明治時代以降は開墾され、徳丸田んぼと呼ばれる一面の水田地帯となりました。この時溜池の水は、灌漑用水として利用されています。
高島平団地の開発が始まったのは、昭和四〇年代に入ってからのことです。
平成一〇年三月 板橋区教育委員会」
<ガス燈>
公園内にある板橋区立美術館の入口には、ガス燈が展示されています。
ガス燈のごく一般的な説明が記されています。
「自然と歴史と文化の里・赤塚」
「武蔵野の路 光が丘・赤塚コース」
赤塚城本丸跡が、赤塚公園の台地上にあります。
「板橋区史跡 赤塚城本丸跡」
「昭和四十三年十一月吉日 板橋区」
(説明板)
「武蔵千葉氏と赤塚城趾
下総国の守護千葉氏は、古河公方足利利成氏と関東管領上杉家とが争った享徳の大乱に巻き込まれ、一族で骨肉相食む争いを繰り広げました。康正二年(一四五六)成氏方の軍勢に攻められた千葉実胤・自胤兄弟は、上杉家の助けをうけ、市川城を逃れて赤塚城と白浜城(現台東区)へ入城しました。
寛正四年(一四六八)に兄の跡を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築きました。
その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった京都鹿王院の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる天正十八年(一五九○)まで勢力をふるいました。
城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にあります。その縄張りは、地形の観察等から都立公園の広場の部分が一の郭、梅林の部分が二の郭、そしてその西側が三の郭とする見解もありますが、正確なことはまだ明らかとなっていません。
平成十三年三月 板橋区教育委員会」
<梅林>
説明板に、松尾芭蕉の弟子である服部嵐雪の句が引用されています。
「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ」
(説明板)
「城址の梅林
梅は春を告げる花です。
ここ城址の梅林は梅畑であったものを農家から譲り受け、平成七年六月から公園地として皆さんに親しんでいただいております。
白加賀(シラカガ) バラ科 サクラ属
花期は二月下旬?三月上旬
中国が原産の梅は花を見るだけでなく果実も採れる実利の植物であります。
毎年、公園管理所では梅の実を地元の養護学校の生徒さんたちに摘んでもらいその一部を近隣の福祉施設にもさしあげたいと考えています。
毎年、子供達が楽しみにしていますので梅の実には手を触れないよう、皆様のご協力をお願いします。
梅一輪一輪ほどのあたたかさ 嵐雪
平成十一年五月 都立赤塚公園管理所」
「江戸名所図会」
「江戸名所図会 松月院 大堂」の挿絵の松月院の奥左手に、赤塚の台地が見えます。
<薬師堂> 板橋区赤塚5-30
赤塚公園の南にある小さな小さな薬師堂です。
乗蓮寺は「板橋区 史跡 赤塚城二の丸跡」に建っています。
赤塚城の守護神として千葉氏に崇められた妙見祠があります。