大堂は、古墳上に建てられた阿弥陀堂で、区内最古の寺といわれています。
建武・延元の頃(1334〜40年)には、七堂伽藍を備えた大寺院で真福寺・泉福寺を擁していたことから、大堂と称されています。
永禄4(1561)年に、上杉謙信が小田原の北条氏を攻めた際に焼打ちされたといわれ、江戸期に松月院の境外堂となりました。
東京都旧跡、板橋区史跡に指定されています。
「江戸名所図会 松月院 大堂」
「江戸名所図会 松月院 大堂」と、大堂部分の抜粋です。
大堂正面からの石階の参道のほか、右手の道から「八まん」の横に出る参道が見えます。
<東参道>
江戸名所図会に見える参道があります。
<自然と歴史と文化の里・赤塚>
大堂階段下にある案内板「自然と歴史と文化の里・赤塚」
<階段参道>
(東京都説明板)
「東京都指定旧跡
松月院大堂
所在地 板橋区赤塚六丁目四○番七号
指定 大正十四年五月
この地域は江戸時代は江戸幕府の直轄地(幕領)であり、豊島郡峡田領下赤塚村に属していた。大堂とはここでは阿弥陀堂のことで、『新編武蔵風土記稿巻之十四』によると、南北朝時代の建武・延元の頃(一三三四〜四○)は、七堂伽藍をそなえた大寺院であったので、村人は大堂と称していたという。永禄四年(一五六一)三月長尾景虎(上杉謙信)が上杉憲政を奉じて北条氏康を小田原に攻めた際に、堂宇悉く焼き打ちにあって消失したといわれている。
文化十一年(一八一四)二月に大堂を訪れた小石川本法寺の老僧十方庵敬順は、「往還の西角にして小高き処にあり、則ち石段を登る拾四五段、本尊は座像の弥陀、御長弐尺四五寸ばかりと覚ゆ」と紀行文『遊歴雑記』に書いている。
東側の八幡社は、江戸時代から下赤塚の鎮守社で、明治初年の神仏分離令によって神社の参道から右は八幡社、左は大堂と分けられている。
南北朝時代の暦応三年(一三四○)鋳造の梵鐘と鎌倉時代末期の制作と言われる本尊阿弥陀如来坐像は共に有名で、江戸市中からの参詣客が絶えなかったといわれている。
平成十三年三月三十一日 設置 東京都教育委員会」
(板橋区説明板)
「大堂
本堂に安置された阿弥陀如来坐像は、高さ約90cmの木造で平安時代後期の作と思われる立派な尊像である。
また、堂前の梵鐘は暦應三(一三四○)年の鋳造で、学僧として名高い鎌倉は建長寺四十二世中岩(円月)の撰文の鐘銘により名鐘として誉れ高く、古来文人墨客の杖をひくところとなった。
鎌倉時代以前は七堂伽藍に十二の脇坊を備えた大寺であった大堂も、永禄四(一五六一)年上杉謙信による小田原攻めのとき兵火にかかったと伝えられ、いまはわずかに本尊と梵鐘に往時の面影をしのぶにすぎない。
平成五年二月 板橋区教育委員会」
<石碑群>
・奉納階段十五段碑
石段の一番手前に、大正14(1925)銘の横倒しの階段十五段奉納碑があります。
「奉納 大正十四年建之
階段十五段」
・丸彫り青面金剛庚申塔
嘉永2(1849)年銘の丸彫り青面金剛庚申塔です。邪鬼も丸彫りです。
・地蔵菩薩坐像
元治2(1865)年銘の地蔵菩薩坐像です。
・石碑が七基並んでいます。
・庚申塔
宝永3(1706)年銘の庚申塔です。
・庚申塔
寛文2(1662)年銘の庚申塔です。中腰の三猿は初めて見ました。
・庚申塔
元禄5(1692)年銘の庚申塔です。猿の目がパッチリ、どんぐり眼です。
・地蔵菩薩立像
元禄6(1693)年銘の地蔵菩薩立像です。
・地蔵菩薩立像
寛文4(1664)年銘の地蔵菩薩立像です。
・地蔵菩薩立像
・庚申板碑
寛文4(1664)年銘の庚申板碑です。
・六地蔵石幢
参道の両脇に一対の延宝7(1679)年銘の六地蔵石幢があります。
<寺号標>
「都旧跡 松月院堂」
<鐘楼>
鐘楼には複製の梵鐘が架けられています。
※「大堂銅鐘(国重要美術品)」が板橋区立郷土資料館に展示・保存されています。
暦応3(1340)年の銘をもつ板橋区最古の銅鐘です。国重要美術品、板橋区文化財です。
「墓碑史蹟研究」(磯ヶ谷紫江 昭和5年 国立国会図書館蔵)
鐘銘が記載されています。
<西参道から>
<阿弥陀堂(三間堂)> 板橋区文化財(建造物)
延宝7(1679)年銘の阿弥陀堂天水受があります。六地蔵石幢と同時期の寄進です。
現在の建物は、延宝7年かそれ以前に建てられたと推測されます。
札所板「豊島八十八ケ所 第四十番 大師堂」が掲げられていますが、理解不能です。
境内は繋がっていますが、右の石段を上ると、八幡神社です。
(説明板)
「八幡神社
八幡神社は、下赤塚村の鎮守の一つで、御祭神は品陀別命です。ご神体として木像の騎上八幡が安置されていたと伝えられています。
創建年代は不詳ですが、暦応三年(一三四○)に鋳造された大堂の銅鐘から、当社もこの頃には既に創建されていたものと思われます。また、荒川の氾濫を逃れるため、台地下の低地から遷座したとの伝承も伝わります。
当社が鎮座する地は、古墳の上であるともいわれ、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、「永禄兵火の時、本尊の阿弥陀火中より出現して止る処と云」と、永禄四年(一五六一)、長尾景虎(上杉謙信)の小田原攻めの戦火に巻き込まれた折に、大堂の本尊である阿弥陀如来が火中から出現し座した場ともされています。
特殊神事として、毎年三月に赤塚諏訪神社獅子舞(昭和五十八年度板橋区指定無形民俗文化財)が行われています。獅子舞は、かつては辻々を舞い歩いていましたが、現在では、赤塚諏訪神社で舞を奉納した後、八幡神社に奉納しています。
平成二十六年十二月 板橋区教育委員会」
<堂宇>
<稲荷社>