Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 赤坂氷川神社


○赤坂氷川神社 港区赤坂6-10-12 HP

「江戸名所図会 赤坂氷川社」

 赤坂氷川神社は、紀州徳川家の中屋敷の産土神であったことから徳川吉宗が崇敬し、
 八代将軍となったのち現在地に社殿の造営を命じ、享保15(1730)年に遷座しました。

  
 

「絵本江戸土産 赤坂氷川大明神」(広重)

  
 

「江戸名所百人美女 赤さか氷川」(豊国・国久)

  
 

<社号標/一の鳥居(南側)>

 社殿正面のこちらの参道は、江戸時代にはなく、明治以降に設けられた参道です。

   
 

几号水準点>

 一の鳥居(南側)の次が、几号水準点が刻まれている三の鳥居です。
 社殿前鳥居(三の鳥居)の向かって左の基台に几号水準点が刻まれています。

     
 

<力石> 港区文化財

 一の鳥居から入って左手奥に、「庭石」「燈籠」「力石」があります。

(標柱)
「港区の文化財 氷川神社の力石
 「三十五貫」と切符があるこの力石は、神社境内の土中から発見されたものです。この力石にまつわる話は特に伝わっていません。力石は、腕力や体力を鍛えるために重い石を持ち上げて「力競べ」、あるいは「曲持ち」を行った際に使用した石で、江戸時代には、神社の祭礼などに奉納のため盛んに行われました。区内の力石は全部で十四点確認されていますが、ほとんどが海岸沿いの神社に残されているのに対し、この一点だけが海岸から遠く離れたこの地にあり、興味深い例です。
  平成七年三月二十七日 港区文化財総合目録登録」

    

     
 

<イチョウ> 港区文化財

 境内にそびえる樹齢約400年のイチョウです。港区指定文化財です。

(説明板)
「東京都港区指定文化財
 天然記念物 赤坂氷川神社のイチョウ(イチョウ科)
 目通り(地上一・五メートルの高さ)の幹径約二・四メートル、幹周約七・五メートルを測る推定樹齢四○○年の巨木である。
 氷川神社の記録をはじめ記載された史料はないが、神社が現在の地に建立された享保十五年(一七三○)には、すでに一○○年を超える樹齢を有していたこととなり、それ以前からこの地で成育していたと考えられる。
 イチョウは、生きた化石とも言われ、一億五千万年前には地球上の至る所で生い茂っていた。氷河期に絶滅しかけたが、中国大陸南東部に残っていたものが、日本に渡ってきたといわれる。落葉性の大木で成長も早く、高さ三○メートルにも成長する。雌雄異株であり、この木は雄株である。
 港区内に現存するイチョウでは最大である善福寺「逆さイチョウ」(国指定天然記念物)に次ぐ大きさと樹齢を保っている貴重な樹木である。
  平成六年九月二十七日  東京都港区教育委員会」

    
 

<浅野土佐守邸跡> 東京都史跡

 説明板「浅野土佐守邸跡」があります。
 奥にあるのは九神社です。

(説明板)
「東京都指定史跡 浅野土佐守邸跡
   所在地 港区赤坂六の一〇・一九 氷川神社他
   標識 昭和一八年三月一六日
   指定 昭和三〇年三月二八日
 元禄の頃、この地は備後国三次藩浅野家の下屋敷でした。三次藩は、寛永九年(一六三二)に安芸国広島藩から五万石を分知され立てられた支藩です。初代藩主は、安芸国広島藩二代藩主光晟の庶兄因幡守長治で、娘には、播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩の正室となった阿久里(阿久理、阿久利とも)がいます。
 元禄一四年(一七〇一)三月一四日、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけた元禄赤穂事件が起きました。長矩は即日切腹を命じられ、領地没収の上、家は断絶となりました。そのため、長矩の正室阿久里は、出家し揺泉院と称し、生家である三次浅野家に引き取られました。以後、正徳四年(一七一四)に死去するまで、ここに幽居しました。この事件が起こった時、藩主が土佐守を称した三代藩主長澄であったことから、「浅野土佐守邸跡」として標識されました。
 三次浅野家はその後、四代藩主、五代藩主ともに早逝したため享保三年(一七一八)に断絶となり、遺領は広島藩へ還付されます。享保一五年(一七三〇)、現在の赤坂四丁目からこの地へ氷川神社が遷宮され、今日に至っています。
  平成二五年三月 建設  東京都教育委員会

  
 

<包丁塚>

 昭和49(1974)年11月、赤坂青山料飲組合による建立です。
 「包丁塚」の文字は田中栄一書です。

(碑文)
「趣意
そもこの地赤坂青山は、古くより包丁の冴えに世人をして味覺の境地におそばしむる店多しために今日が日まで破れ損いし刃物は和洋を問わず數多なり、そを情あつき人々相つどい組合設立二十五周年を期に、この因りの地氷川の神域に「包丁塚」を建立、以ってとこしえに感謝の誠を捧げるなり」

   
 

<石燈籠> 港区文化財

 港区指定文化財の石燈籠です。

(標柱)
「港区の文化財 氷川神社の石燈籠 四基
 門の内外に立つ二対四基の石燈籠です。門内の本殿前に立つ二基は、赤坂表伝馬町・裏伝馬町・元赤坂町(現在の元赤坂一〜二丁目)の講中が、享保九年(一七二四)閏四月に奉納したものです。氷川神社が徳川吉宗の産土神として信仰され、現在の地に遷座したのは同十五年であり、それ以前は「古呂故が岡」(現在の赤坂四丁目一辺り)にありました。この燈籠はその時代のもので、遷座に際し移されたものと考えられます。
 門外の二基は、遷座の年に岡崎城主水野忠之が奉納したものです。水野忠之は吉宗が行った享保の改革の前半を主導した老中です。幕府財政の建て直しに尽力した人物で、吉宗との強いつながりをこの石燈籠からも伺うことができます。岡崎藩水野家は吉良邸討入後の赤穂浪士九人を三田の中屋敷に預かった家としても知られています。
  平成七年三月二十七日 港区文化財総合目録登録」

     
 

<天水桶>

 戦時中の金属供出を逃れています。
 深川大島の鋳物師で当時「釜六」と呼ばれた、太田近江大掾藤原正次作の天水桶(天保12(1841)年銘)です。

  
 

<東京十社/楼門/社殿>

 徳川吉宗の命によって造営された社殿が現存しています。

    
 

<東参道の一の鳥居/二の鳥居>

 江戸名所図会に描かれているように、こちらの参道が、古くからの表参道となります。

   
 

<庭園/太鼓橋>

   
 

<四合稲荷>

 勝海舟により「四合稲荷」と名付けられています。

(説明板)
「四合稲荷神社
  ※毎年四月十五日例大祭(ご自由に参列下さい)
・御祭神
 宇迦之御魂神─食物の神、殊に稲の神
・御縁起
 @ 古呂故稲荷 (赤坂一ッ木二番地、古呂故天神社境内に鎮座)
 A 地頭稲荷  (氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)
 B 本氷川稲荷 (本氷川神社隣接、別当盛徳寺の境内に鎮座)
 C 玉川稲荷  (赤坂門外の御堀端、現弁慶橋のあたりに鎮座)
 以上、四社を明治三十一年、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟翁により「四合(しあわせ)稲荷」と称えられる。
 大正十四年に、鈴降稲荷神社(赤坂一ッ木町に鎮座)及び、縁起稲荷神社(赤坂丹後坂下に鎮座)二社を、また昭和九年に、明徳稲荷神社(赤坂新町に鎮座)を、遷座合祀し、現在に至る。
 勝海舟翁筆の「四合稲荷社」という扁額が、現存する。
・附記
 古呂故稲荷神社は、古呂故天神社境内、氷川旧社地(氷川御旅所)に祀られていた稲荷社であって、明治十七年、氷川旧社地を売却した際、現氷川神社境内へ遷座、のちに四合稲荷に合祀された。
 地頭稲荷神社は、享保年間、現氷川神社遷座以前より祀られていた稲荷社である。
 本氷川稲荷神社は、本氷川神社(昔は溜池付近にあり、のち承応三年に、現氷川神社の隣地へ遷座、今井の総鎮守として、住民から尊崇を受けていた)境内の稲荷社で、本氷川神社と共に明治十六年、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された。
 玉川稲荷神社は、水道方玉川庄右衛門の邸内社だったとする説もあるが、御神体が玉川上水に流れ来た故に、玉川稲荷と称したものと推定される。明治二十一年、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された。」

   
 

<西行稲荷>

(説明板)
「正一位 西行稲荷神社縁起
 文政(一八一六?一八三〇)年間、町方書上の赤坂田町四丁目より録写したところによれば、町内自身番屋敷地内に古来からあった祠堂で本社は六尺に七尺五寸、拝殿二間四方で前方に三尺に六尺の向拝がありました。
 勧請の由来は、年代不詳(享保年間ともいう)、田町五丁目に西行五兵衛と異名をもつ男あり、榎坂を通行中、甲冑を帯し弓箭を携え、狐の形をしている三寸程の鉄像をひろいとったが、稲荷の御神体らしいと云ふので、これを勧請し、五兵衛の異名を以って、西行稲荷と唱えられました。
 明治以後、町の発展に伴い、大正十年(一九二一)九月氷川神社境内に移し、別名「火伏の稲荷」ともいい、火災除の御神徳があると称されております。
  平成七年九月吉日建之  赤坂田町三・四・五丁目町会」

   

    
 

<山車>

 令和3(2021)年に設けられたばかりの山車展示場です。
 山車が2基、展示されています。

   

(説明板)
「赤坂氷川山車
 江戸の祭の華は山車であり、主要神社の祭礼に用いられていました。
 山車の多くは「江戸型山車」と呼ばれ、徳川将軍の上覧に際し、江戸城の城門をくぐるため、人形がカラクリで上下することが特徴です。
 当社社殿内の大絵馬にも山車13本が神域内を巡行している様子が描かれています。
 しかし時代が明治に移り、山車祭りの衰退に加え、関東大震災や東京大空襲の被災により、祭礼の主役は山車から神輿へと変わっていきました。
 都内二十三区から殆んど姿を消していった山車ですが、社殿裏手の倉庫には、完全な形でないものの、奇跡的に9体の山車人形が残存していました。
 『現代に江戸祭礼絵巻を描く』
 失われた江戸の祭礼を現代に復活させるべく、地域全体で山車の修復・復元を行い、展示や巡行規模は年を拡大し続けています。」

「赤坂氷川山車『頼義』 松雲斎徳山作 弘化三年(一八四六)
 全国的にも大変珍しい三層型の山車です。
 平安時代の武将、源頼義が戦いの最中に八幡神に念じ、手にした弓で岩を打ったところ清水が吹き出た、という石清水八幡の伝統に基づいで制作されたようです。
 きらびやかん人形は弓を手に持ち、上段の飾り幕には岩と水しぶきが刺繍されており、人形と幕が一体となって物語を構成していることがわかります。
 山車人形づくりの名工と称えられる松雲斎徳山が制作し、明治三十年に久月(台東区浅草橋)によって修復がなされたと伝えられております。」

「赤坂氷川山車『猿』 作者不明 弘化二年(一八四五)
 赤坂氷川山車のなかでは唯一 上段に六角形の高欄を持つ珍しい形をした山車です。
 山王権現(日枝神社)、神田明神(神田神社)の天下祭では、山車行列の先頭は「天下泰平」を象徴する「閑古鳥」、続いて神様のお使いとされる『猿』が巡行していました。
 赤坂氷川祭でも天下祭にならい、猿の山車が行列の前方巡行していたと考えられます。
 飾り幕の上段は『龍と波』が、下段には赤坂氷川神社の御神紋である『巴』が金糸で刺繍されています。」

    

  
本氷川坂> 港区赤坂6-10・6-19

 氷川神社の西に面しているのが本氷川坂です。
 坂下には「勝海舟邸跡」があります。

(標柱)
「本氷川坂 もとひかざか
坂途中の東側に本氷川明神があって坂の名になった。社は明治十六年四月氷川神社に合祀された。元氷川坂とも書いた。」

  


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